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時刻表にない列車

初夏から夏にかけて山梨の増富へラジウム温泉治療に通い、夏には二人で大阪へも旅行した。最後になるとわかっていた旅。彼女は到着した夜にホテルで高熱を出した。梅田駅前のホテルの窓から絶え間なく行き交う電車が見えて、西日の差す落ち着かない部屋だった。
夜明けに、もう東京に帰ろうと伝えると、嫌や、まだお好み焼きも食べてへんと駄駄をこねる。それから見る見る熱は下がり起き上がれるまで回復した。日頃から痛いとか辛いとか言わない人だったが、大阪の街に出たい一心で自ら回復させたのだと思った。
午前中、谷町の知合いの店にタクシーで向かい一休みした。ついさっきまで強烈な熱と悪寒と戦っていたのに復活している。
昼は天神橋筋のお好み焼き屋で豚玉とねぎ焼きを食べて、お兄さんの眠る玉造の教会、カテドラル聖マリア大聖堂へお参りに行った。日の光が大きなステンドグラスを通して大聖堂に差し込んでいる。誰もいない教会のベンチに座って、僕たちは安らぎ静かに時間が過ぎた。
帰り道、玉造の駅に向かう途中、雑種犬を連れた年配の女性とすれ違った。犬が愛らしくて何度か振り向きしていると犬もこちらを見つめている。犬は同じ場所に留まって動かない。僕たちは彼の元へ戻って行った。ロックという名前だと言う。彼女に誰かが会いに来たように思えてならなかった。

大阪へ行く度に彼女の人生を辿るようにあちこち歩き回っていた。ローカルな街を歩いて歩いて草臥れては喫茶店や食堂や銭湯に寄った。それが何より楽しかったのだ。僕たちの旅行はいつも決まって、妻の故郷、大阪をふらふらすることだった。最後になるかも知れない大阪の街を彼女は歩きたかったのだ。

東京へ戻った日、彼女は深夜に突然、高熱と悪寒で正気を失った。救急車を呼んでお茶の水の病院に緊急搬送する。
間質性肺炎で危うく命を落とすところだった。この日からぼくと彼女の入院生活が始まる。最上階のフロアは静かで特別な空気に包まれていた。これ以上先へは行けない患者の終着地のようで僕は怖かった。
風呂場で髪を洗ってあげる時、モルヒネで痛みは抑えていたが、彼女の肩は細く折れそうだった。
僕たちはよく病室を抜け出した。手を引いて街へ出て、野外ライブを観たり、駿河台の坂道を歩いてはなまるうどんを食べに行ったり、大学のキャンパスの椅子に座って学生たちを眺めていた。
ひと月ほど病院で過ごしたが我が家に帰ることにした。彼女は家で過ごすことを望んでいたし、ケアマネジャーが訪問医と車椅子やベッドを手配してくれた。

家に戻ってからは、車椅子と彼女を乗せてあちこちドライブへ出かけた。助手席の彼女は直ぐ眠りに落ちてしまう。しばらくするとふっと目覚めていつも恥ずかしそうにした。
抗えない運命が時を進めて行くのに、二人で喫茶店に入ったりすると、彼女は雑誌のフライデーなんかを捲りながら大きなクリームののったデザートを食べて少しだけ幸せそうにする。
僕は一日中側にいて彼女の身の回りの世話をしながら、終わりの来ないことを祈る日々だった。

ぼくは妻の手をとって家の中を歩いた。
2歩でも3歩でも歩けるうちは歩き続けた。あんよを覚えたばかりの幼児のように手をとって歩く。狭い家の中を端から端まで歩く。椅子に座って休んだらまた歩く。それが死の闇に落ちそうな不安から逃れる唯一の策で、彼女の生きている証だった。

夜遅くなって彼女のリクエストした食事はチキンラーメン。娘の作ったチキンラーメンを食べて塩っぱいと文句を言った。それから彼女は長男夫婦を引き上げさせ娘も寝かせて二人きりになった。
妻は柔らかな胸に僕を抱き寄せ、どんな脚本家も思いつかないような可愛いことを言った。

僕たちはどこまでも一緒の約束だった。でも彼女だけを乗せて列車は走り出し僕はひとりホームに残った。裏切り者の恥ずかしさと罪悪感はどんな風に吹かれても消え去らない。あれ以来ずっと列車を待っている。早く追いついて、昔のあれもこれもごめんねと言いたいのに。
哀しみと細やかな幸せが多重露光のフイルムのように焼きついている。


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