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ドン底から僕を救ってくれたのは、自分でつくったサービスだった。

上のツイートがバズったので、もっと詳しくプロフィールを振り返ってみる。

僕は決して頭がいい方ではないし、優秀ではなかった。30手前まで酒・タバコ・ギャンブルに溺れ、借金までしていた僕が、なぜはい上がってこれたのか。ここで振り返ってみたいと思う。

サービス開発の原体験は小学生時代の4コママンガ

僕は長崎県の五島列島という小さな島に生まれた。

小さい頃から落書きが好きで、小学生のころは4コママンガを毎日描いてはクラスで回し読みしてもらうという遊びをやっていた。いま、思えば作ったプロダクトをたくさんの人に使ってもらう(みてもらう)という喜びを知ったのはこれが最初だったと思う。

高校生は電気科で、ポケコンという小さなスーパー電卓でゲームづくりをしていた。プログラム言語のBASICがはいっていて、なんと小さいメモリながらプログラミングすることができたのだ。

この楽しさにハマって、授業中もひたすらプログラミングをする日々が続いた。その頃、格闘対戦ゲームやボクシングゲームをつくっていたのだが、メモリが少なくて新しいゲームをつくる時に、それまでつくっていたゲームを消さないといけなくて悲しかったのを覚えている。

これが最初にプログラミングの楽しさにハマった体験であり、そしてこのつくったゲームもクラスにまわして遊んでもらうということをやっていた。

はじめてのホームページ作成。真夜中のインターネット。

高校生のころ、セガのドリームキャスト、いわゆるドリキャスでインターネットにはじめてであって、衝撃を受けた。

そのころはアイドルのSPEEDが好きで、ファンサイトをみたりしてた。ファンサイトの掲示板でテレビ出るよとか、ライブ行ってきたよとかそういう話をしてたと思う。

だんだん自分でもファンサイトをつくってみたくなり、最近閉鎖したジオシティーズでホームページを作成。まだパソコンもなかったので、ドリキャスのブラウザでHTMLのタグを打ち込む日々。大変だったけど、楽しかった。

この経験があって、将来はネットに関わる仕事をしよう!と思ったのだった。

東京の会社で不採用、福岡で制作会社に就職

最初は東京の会社に就職しようとしたけど面接で不採用。しかたなく、福岡の専門学校へ。専門学校は本当ひどくて、やる気のない学校だった。先生が生徒を落とさないために回答が書いた紙を教壇においてテスト中に外に出たり。

福岡にでた僕は浮かれ、タバコを吸って、髪を金髪に染めて遊びまくる生活で堕落していったのでした。2年間は、ほとんど遊ぶことしかやってない。でも、その傍らでパソコンでWEB制作はやめずに続けていた。

卒業間近になり、就職をしなくては...ということで、それまでつくっていた自分のWEBサイトを実績に、Yahooで福岡の制作会社をさがして、面接をお願いしていったところ2社から返答があり、そのうちの1社で即日採用に。

面接に行ったときも金髪だったし、勤務中も席でタバコを吸えるという、今思えばぶっ飛んだ会社でした。それだけ寛容だったから、入れてもらえたのでしょうが。

当時の給料は13万。生活ギリギリだったけど、次の仕事を約束通り納品できたら給料を上げてください、と交渉して少しだけ上げてもらえた。

僕が入社したら、そこにいた社員が入院して、しばらくは素人の僕と社長だけでWEB制作を夜中までつくっていた。

そして、その会社の旦那さんが不動産業をやっていて競売不動産の取扱もあったことから、競売不動産の情報配信サービスをスタート。そこではじめて、PHPでプログラミングを勉強しはじめることに。プログラミングは最初から楽しかった。つくったものが動くのってとても楽しい。

制作会社で学んだこと

小さい会社だったので、担当者がすべての役割をこなすフリーランスのような集団。1人で営業に行って話を聞いて、企画・提案し見積もりをだす。とることができたら、デザイン、システム開発、コーディングをして納品する。という流れ。

ここで10年働けたことはとても勉強になった。その後、スムーズにフリーランスとして受託開発を受けれたのは、ここでひととおり覚えられた経験があったから。

同時に競売不動産の情報配信は会員制サービスで月額いくらという形で運営しており、この情報更新や会員サポート、ひいては会員獲得まで自分たちでやっていたのも貴重な経験になった。

後に自分でCLOUD PAPERというクラウド見積請求サービスを立ち上げることになるが、こちらも同じ月額制だし、サポートを長年やっていたことも自信になった。

ギャンブルにはまって借金を負う

そのころ、同時にパチンコにはまり、給料を全部使っていた。仕事が終わって23時まで打っていたし、土日も。お金がなくなって両親や友人に借りてまでやっていた。

しまいには消費者金融で50万借りて、1週間で使い切ってしまった時はドン底を味わった。もうダメかもしれないと思った。その頃の給料を考えると、返し終わるのにどのくらいかかるのか、毎日怖くて仕方なかった。

ちょうどそのころ、iPhoneが日本で発売。面白そうだと感じた僕は直感で買った。

iPhoneを持ってみると、まだまだ機能不足で足らないことばかり。そして、iPhoneの中に自分でアプリをつくってインストールできることを知り、強い興味を持った。しかも、世界中にアプリを公開できる!

ある時、パチンコで20万くらい勝ち、そのお金でmacbookを購入した。macbookでアプリをつくって稼いで、ここから抜け出そうと思った。給料じゃ返せないけど、一発当てれたら...。

アプリ開発を勉強して3ヶ月でリリース

そのころは本も少なかったし、情報も英語ばかりで苦労した。Objective-Cという難解な言語に加え、Appleが提供するXcodeの使い方や、証明書関連の設定など、とにかくハードルがとんでもなく高かった。

毎日、仕事が終わってから夜中までアプリの本やドキュメントを読み込んでつくる毎日。その頃は会社の仕事を15時くらいまでに猛ダッシュで終わらせて、会社でもこっそりアプリをつくってた。

そのころ作っていたのはMusicNaviというアプリ。amazonのAPIでアーティストとアルバム・曲を検索して、youtubeでPVをさがしてシャッフル再生してくれるというもの。

この一発目のアプリが大ヒット。全ランキング3位に入った時は震え上がった。

それまで1人のクライアントのためにシステムをつくっていた僕が、スマホアプリがヒットしたことで、こっちのほうが面白い!と感じた。

その時の嬉しさを忘れられなくて、今もサービスをつくる原動力になっている。サービスが、たくさんの人に使われてるのをみると嬉しい。

僕、会社辞めます。そして、フリーランスへ。

ある晴れた気持ちのいい日、同僚と営業ででかけた日。

青い空をみて、「こんな気持ちのいい日にぼーっとする時間もないなんて、何やってるんだろうね。」なんて話をしていたら、そのまま流れでふと「僕、会社辞めます」としゃべっていた。このままの生活じゃ、ダメだとどこかで感じていた。

もちろん、勢いもあったけど、そのほかにもツボッターというTwitterクライアントなど、いろんなアプリをつくっていて、アプリ開発とシステム開発で生きていけるんじゃないかという漠然とした根拠だけあった。

フリーランスでとにかく稼ぐことだけに集中

フリーになってからは、給料はもうもらえない。自分で稼がないと!という気持ちが強く、どうやったら稼げるか。ということばかり考えるようになった。(アプリを作る楽しさはどこへやら...)

いろんなことをやった。例えば、最初はアプリ開発を教える講師のようなこともやったりした。長崎大学に行ったり、茅ヶ崎の制作会社に1週間教えに行ったり。これは楽しかった。

コネもなにもなかったので、それは今でも続けているブログ頼み。とにかくブログを書きまくることでネット上で検索にかかるようにして、ポートフォリオをのせて仕事をとろうとした。これはうまくいって、実際にネット経由でしか仕事はとってなかった。

安定させるために複数の収入源を確保

受託開発は売上は大きいけど、ずっと入ってくるものではない。だからこそ、いろんな収入源をつくらないといけない。そう考えて、複数の収入源をつくることを意識した。

・ブログ広告(アフィリエイト、スポンサー広告)
・システム受託開発
・自社サービス開発

なかでもCLOUD PAPERは自分自身が使うサービスとしてはじめたのもので、いまでは月15万以上を安定して稼いでくれるサービスにまで育った。

顧問契約スタイルで収益が爆発的に増えた

受託開発は納品したら終わってしまう。そうではなく、本来システムって納品して使い始めてから、改良して使いやすくなっていくもの。もともと、納品して終わる、という方式に疑問を感じはじめていた。

見積をとるということは最初に仕様を決める必要があるけれど、ゼロから考えていく時に最初からすべての設計図は書けるわけがない。そんなことから、顧問契約をスタート。

月10、20万で契約して、継続的に開発にたずさわっていくスタイル。いわば、そこの社員エンジニアになった気持ちで提案もするし、開発もつづけていく。仕事の出来が悪ければ契約は続かないので、緊張感をもって続けていける。僕としても安定収入になるので、とてもありがたい。

この方式に切り替えたことで、クライアントが増え続けた。やがて一人では開発の手が回らず、リモートでエンジニアさんとも契約。規模を拡大していった。(とはいっても、エンジニアは2名)最終的には年間売上3,500万にまで伸ばすことができた。

本当にやりたいことに気づく

フリーになって、ようやく安定してきたな...と思った時、ふと我に返って自分は何がやりたくてフリーになったのだろうと思った。

15年も受託開発をやってきて、他人のシステムをつくることにも疲れきっていた。僕が本当にやりたかったのは、1人のクライアントのシステムをつくることではなく、直接たくさんのユーザーのために使ってもらえるサービスをつくること。それがやりたいことだった。

ここからは自分が好きなものを作って世にだしていきたいし、面白いサービスをたくさんつくってみたい。それだけに集中したい。そんな気持ちを抑えきれず、今年の4月に受託開発をやめる宣言をしたのでした。

と同時に、僕と同じように、いつかはサービスをつくって生きていきたい!と思っている人はたくさんいるんじゃないか。いまは無理でもいつか...。そんな人達のために僕が試したノウハウ、みんなのノウハウを集約すれば役に立つはず。そしてみんなでサービスをつくったら面白いかも。

そんな思いでオンラインサロン入江開発室を立ち上げることに。

入江開発室も4月に立ち上げていまや350名。まさかここまで共鳴してくれる人がいるとは思ってなかったけど、もっともっと集めてサービスをつくって収益をだして強いサービス開発集団になると面白いと思っている。まだまだこれから。

新しいサービスをリリース

受託をやめて、はじめてのサービスになる、個人のスキルシェアサービス「MENTA」をオープン。

出だしは順調でオープン約1ヶ月で売上100万を達成し、いまもユーザーと共にサービスを成長させるべく、毎日考えているところ。

入江開発室で生まれた、コミュニティを熱くするVoyageもCAMPFIREさんと共同開発できることになった。こちらは、まだこれからだけど、サービスをつくって使ってもらえるのは本当に楽しいし、うれしい。

僕個人としてはNOWの家入さんに出資を検討してもらっていたり、福岡にサービス開発の拠点をつくる方向で打ち合わせをしていて、これからも面白いことになると思っている。

受託をやめて、自分がやりたいこと、サービスづくりに舵を切ってからガラッと僕の見える世の中が変わった。毎日楽しくて朝4時には目が覚める。

これからどんな楽しいことが起こるのか。毎日がむしゃらに目の前のことをやってきただけど、人生、自分次第でどうにかなる。

こうなりたい、こうしたいという希望を持ちつつ、目の前のことに全力をぶつけていれば道は開けるはず!僕は実体験としてそう思います。


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