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黒いエネルギー

 私は五十肩を患っている。上がらない肩にももう慣れたものである。日本国の困惑に比べれば、大したことではない。テレビ電波経由で政治家が道化のふりをして話しているのを見ていると、この無用な存在はAIに置き換えられないから生き残っていくんだろうなと、皮肉を思う。インターネット回線経由で見るネットでの炎上にはもっと呆れ、論題も文章も結果もすべてが低俗と、自分は教養人であると言い聞かせる。ふと、このネットでの駄文の応報に似たようなことがあったと、脳みその左奥の闇で火花がチリチリと散る。デジャブではなく、火花の先に何かが見えそうである。脳が余計なことに気を取られないように、脳波を静めようと音を遮断する。チリチリがぼわっと炎になり、眼前に現れたのはカラオケだった。
 外出の機会が奪われ、行動制限が公に宣言されている。家という箱に閉じ込められている。人間としての活動のエネルギーを持て余すわけである。そのエネルギーは行き場なく体の中をうろつき、淀んで濁って腐っていく。その黒いエネルギーを放出しなくてはならないと心も体も警告を発している。慌てて思いつくまま目につくまま試す。料理、ヨガ、そしてネットである。いわゆる書き込みである。黒いエネルギーを体から出そうとしているのだから、あまり好ましいことは書かないし、あまり丁寧にも書かない。他人の黒いエネルギーと衝突する。その衝突が繰り返され、炎上と呼ばれる。
 この黒いエネルギーの放出行為、正にカラオケではないか。私は昭和の人間だから、令和になってもスナックでカラオケを歌っていた。お気に入りの店に仲間と一緒に行く。自ら選んだ曲を歌う、他人のことは全く考えていない。マイナーであろうと古かろうと、好きな曲を歌う。店の女の子に勧められて流行りの英語曲に手を出すこともあり、ときどきは他人のことを考えたりはする。カラオケという装置を通すと、音量のせいか、伴奏のせいか、とにかく自分には上手く聞こえるものである。そんな陶酔感に加え、一曲を歌いきった肉体的消耗による達成感が得られる。ジョーズデスネと片言の日本語で褒められると、承認欲求が満たされる。店には別の客がいて、私たちと同じように騒いでいる。外から見ると、その喧騒は滑稽である。それでもその偶然の隣人が知っている曲を歌えば一緒に盛り上がるし、曲が終われば拍手をする。マイクを持っていなくても、叫んだり踊ったりする。店の女の子の日本語の勉強にと、あまり興味のない曲を一緒に歌って鼻の下を伸ばしたりもできる。こんな感じに私は黒いエネルギーを放出していたのだ。
 という文章を、私はキンミヤのウーロンハイを飲みながら書いている。酒を飲みながらとは、これも正にカラオケ的。ああ皆、元気だろうか。◾️

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