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11月6日の日記 多摩美の芸祭で推しを知る

多摩美の芸祭に行ってきた。

いろんな作品が展示されているのに加えて、フリーマーケットのスペースがかなり広めにとられていてよかった。いままで行った美大の芸祭は、作品の販売といった光景はあまり見られなかったから新鮮だった。

どれを買うかとても悩んだ。いろんな方のいろんな作品がずらりと並んでいた。ポストカードをはじめとして、原画、陶器、アクキーなどを買った。

なかでも悩みに悩んだのが、ステンドグラスだった。買いたい、でも家にどうやって飾ろうか、もっといいものがほかにあるかもしれない…などと考えを巡らせ、買う買わないの葛藤が頭の中で繰り広げられた。

目の前にいた、作品を売っていた製作者の方がステンドグラスを手に取り太陽に透かした。「こうやって光が透けて綺麗ですよ」と言ってくれる。

まみえる青のきらめき。うーん、確かに綺麗だ……。

しかし、まだ悩む。製作者の方の名刺を受け取り、いったんその場を後にすることにした。

それからいくつかの展示を見て周り、時間が過ぎた。あのときガラスに透かされた太陽も傾き、あたりは暗くなりつつあった。夕刻である。

頭の片隅にあのきらめきが残っていた。まだ悩んでいた。ステンドグラスを買うか否か。

結局、あの販売スペースに戻ることにした。買うことを決意したのだ。しかし、時間があれから経ってしまったからもう売れてしまってなくなっているかもしれない。

戻ってみてみると、ステンドグラスはあった。いくつか売れていたが、自分が欲しいものは一つ残っていた。

再びステンドグラスを手にとる。すぐに買わなかったのは最後の葛藤があったからだ。矯めつ眇めつ観察していたら声が聞こえてきた。なにやら製作者の方が、私が戻ってきたことを話しているようだ。

覚えられていたのか!というちょっとした驚きがありつつ、これは買うしかないなと思い作品を差し出し言った。「これください」

すると、製作者の方はすごく喜んでくれた。

その喜びようは、静かではあるけれどみなぎるものがあった。単なる商品の売り買いをしているだけでは現れないもののように思えた。

そんなふうに喜んでもらえたとき、3000円のステンドグラスはプライスレスになった。

作品の交換としてお金を媒介したが、根底にあるのはそうした資本主義的な営みではない。単純にいい作品だから欲しい、そう思ってもらえて嬉しい、といったようなシンプルでありつつも人間の根本的な感情原理に基づいた営みであるように思われた。

お金を使ったのはたまたまであり、時と場合が違えば別の何かを差し出していただろう。そんなふうに思った。

とにかく、人間の目指されるべき最終地点のようなものがあるように思われた。真の充実があった。

推しにお金を使うというのも、これに近いのかもしれないと思った。いままで人に対するお金の使い方について、理解ができないところがあったが少しわかった気がする。

推し活ってそういうことなんですかね。

という、ちょっと嬉しかった話でした。

晴れ
『さよなら未来』
『キリンに雷』

(2022/11/06)

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