見出し画像

「東京の無駄づかい」

「今度東京に遊びにいくから、東京らしいスポットを教えて」

そう友達に言われたとき、正直困惑したのを覚えている。

東京には日本中、もしかしたら、世界中のものが集まっている。ただ、逆を言うと東京にしかないものはなかなかない。日本の他の都市と比べれば、大きな公園が多いことくらいか。けれどもそれも、ニューヨークと変わりはない。


そのとき思った。


「自分は東京のことをあまり知らない。というより、興味がないのではないか」


自分は生まれは鳥取だが、すぐに東京の町田に越してきたので、育ちはずっと東京だ。しかも町田という街は駅前はそれなりに発展してるから、何をするにしても町田駅周辺で事足りる。足りないものといえば、当時は映画館くらいだったか。映画を観たければ、小田急線の急行で一駅の新百合ヶ丘へ向かった。


23区に足を運ぶようになったのは、社会人になってからだ。当時の自分はわかりやすく言えばミーハーだった。新しいお店がオープンした、テレビに取り上げられた、あそこは口コミで有名だ、という情報が入れば一目散にその場へと向かった。町田とは違う、「これが東京だ感」を満喫していた。

それでも東京のすべてを知り尽くしたわけではもちろんないし、東京らしいもの、というのを見逃している可能性は大いにある。けれども、どのタイミングからだろう、東京に対して「新しさ」を感じることがなくなってしまった。

世間は変わらず、「日本初上陸」「アジア初」といった謳い文句で、日々新しい何かが東京で生まれているように騒ぎ立てる。けれども、そこには既視感しかなく、まったく心が踊らない。

東京のいいところは、ものごとの新陳代謝が激しいところだと思っている。日々何かがアップデートされているような空気を生んでいる。ただ、それと同時にコモディティ化が一気に進む。自分らしい夢を追いかけて上京してきた人も多いであろうこの日本一の都市で、みんなが同じようなことをしている。遊びも、仕事も、生き方も。

そういう、ちょっとした冷ややかな目でしか東京を見れなくなってしまった今では、自分の中には加速度を上げて「東京の無駄づかい」が進んでいる。東京でしか得られない体験はないが、東京にいたほうが得られやすい体験は確かにある。けれども、そこからここ数年離れている。

自分には、無意識に「新しいもの」を東京に求めてしまっている節がある。新しいだけが魅力なわけではないはずなのに、どうしてなんだろう。その新しさを東京に感じなくなって以来、自分にとって東京は、苦痛な満員電車に耐え、高い家賃に耐えて暮らすほどの価値を見出せなくなってしまった。新しくないのならば、東京にいる必要はない。そして、今の自分はそもそも以前ほど「新しいもの」を求めなくなってきているのも事実なのだ。


この秋、広島の尾道の島、向島に移住する予定だ。東京を出ようと思った理由は、この「東京の無駄づかい」が少なからずある。こんなことを考えずに、この東京を利用してやろうという気にさえなれば、それなりに良い都市であることは間違いないとは自分でも感じている。島暮らしは、東京暮らしと対局にあるだろうから不安がないかと言ったら嘘になる。

ただ、一度興味がなくなったものに対して熱を持つことはなかなか難しい。自分には「無駄づかい」ほど耐えられないものはない。

今は、長い恋愛から冷めてしまったかのような気分なのだ。


10年先、20年先、未来の住民のために木を植えます。