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「きれい」を見失っていた私へ

本コラムについて、長文の自分語りだったにも関わらず、想像以上にたくさんの方が時間を割いてくださり、肯定や共感お言葉をいただいたこと、とても自信につながりました。前回の内容で終了しようと思っていたこのシリーズですが、せっかくなのでその都度その都度、思考し至ったことを、またつらつらと書いていこうと思いました。
内容は私の気がすむまで続いていきますが、やはり誰かの為にあてた内容ではないため、自分のことを語っていくだけの内容です。本当にお時間のある時にご覧くださればと思います。

「きれいになろう」はどこからくるか

私はお恥ずかしながら、もともとすごくちゃんとお化粧するタイプじゃない。服も地味なものをどうしても選んでしまうし、とりたてて外見で主張しようという気持ちが少ない。なんとなく、そこに割くエネルギーが足りなかった。
「きれい」というのも、本当にいろいろあって、一生懸命工夫と努力を重ねたきれいさも、ありのままのきれいさというのもある。
もちろん男性にも同じような美的追求はあるものだと思うけれど、女性はよりそれが強い傾向があると思う。(ジェンダーっぽい発言はどうしても偏りが出てしまうけど、ご容赦願いたい。)
一連の記事を書いていて気づいたのは、「きれいになりたい、なろう」という気持ちには、一定の自己肯定感、もしくは承認欲求が必要なんだろうな、ということだった。そして私は、女性として、社会生活を送る人間として、いろんなものがこそげ落ちていた。もちろん自分のためにやることだけれど、美しくなろうと思えるのには、やっぱり「何か」が必要なのだと思う。

もっときれいになりなよ

今まで書いてきたように、人を責めたくない、面倒臭い、という私の心は、状況を飲み込むたびにどんどんと自分の卑下の色を濃くしていった。「自分は約束を守る価値もないのだ。」「自分とは長生きしたくないのだろう。」自分がそれにうなずく。「そうだね。」
そうやって納得して日々を過ごして波風が立つストレスから逃げていた。願いは不毛なものとしてしまえば、相手の機嫌を伺いながら頼む必要もなかった。
だんだんと、自分の価値が薄く、薄くなっていく。自分への自信なんて、もう心の底の方にちいさく残っているだけになっていた。もしくは過去に置いてきてしまったそれが、ぼんやりと遠く見えただけだった。

「もっときれいになりなよ。」
これは彼に常々言われていた言葉だった(特にここ2年ほどは頻度が高かった)。例えば「持ってるものを活かしなよ」のようなニュアンスのいい言葉なのかもしれないけれど、そのフォローはほとんどなかったし、あっても私が信じられなかっただろう。正直すごく辛かった。だって、もう、もともともっている自分の内面も、外見も、とっくに嫌いになっていたから。受け取り方としては「あぁ、そうね、きれいじゃないものね。みすぼらしいものね」のような感じになっていた。
暮らしだってかろうじて、大人として人を不快にさせない程度のメイク。人に会わない日なら化粧もおしゃれもしたくもなかった。鏡に映った自分の顔を見るのも嫌だった。自分と向き合いたくなかった。それにしなくたって生きていける。誰も私のことを気にしていないだろう、それよりも我慢したりやらなくてはならないこと、エネルギーを割かねばならない部分が多かった。
心を置き去りにしたような、業務的な褒め言葉も、本当はいちいち傷ついていたのだと思う。なんなら言われないほうがよっぽどましだったかもしれない。ちなみに面白い言葉だと「スヌー●ーみたいでかわいい」と言われていた。そうだね、昔からダックスフントっぽいと言われていたこともあったし、自分でもわからんでもないし、確かにスヌー●ーはかわいい。

でもそれは犬だ。

もっと普段からいろいろ認められていたなら、スヌー●ーだって嬉しかったかもしれない。ただ自尊心が地の底へ落ち、きれいになれと言われ続けた私へのスヌー●ー発言は、もはや私を人間ではなくした。悪気はない無邪気な言葉だろうから尚更、あぁ...と自分の中で黒く腑に落ちていく。
さらには、日々全力で支えきっている人に対して、これ以上努力しなくてはいけないのかという気疲れ、彼への承認欲求も、私自身の自己肯定感も、「きれいになろう、なりたい」と思えるエネルギーを割ってしまっていた。

もったいないよ

騒動の相談を勇気を出して切り出すとき、全ての人に対して「もう少しがんばれ、別れない方がいい」と言われると覚悟した上で話していた。しかしいざ蓋をあけてみれば、誰1人反論しなかったし、多くの人が「別れろ、という意味ではないけれど、あなたがそのままの時間を過ごすのは、とてももったいないことだと思うよ」というような言葉をくれた。
「もったいない」それはとても不思議な言葉だった。その人がもったいないと思う私は、私の持つ魅力、評価、価値を一言で、包括してくれていた。しかも私自身の肯定ではなく、その人の中にいる私への肯定だった。
そしてその中には「あなたは魅力的だよ、きれいだよ」というお褒めの言葉もあったりした。こんなにボソボソだった私に、そんな言葉をくれた。外見のことなんか理由として考えたこともなかったけれど、ふいに涙が出そうになった。きっとすごくコンプレックスだったんだと思う。
そしてその褒め言葉が例え過大評価だってかまわない。嘘をつかず、こうやって正面から向かいあってくれる人の中にいた私を信じたいと思えた。もうこれ以上頑張れなかった、いっぱいいっぱいの状態の私をみても、私が全く良いと思えなかった私を見ても、そうやって言ってくれる。あぁ、こういうことなのか、と心の中でじわりと暖かいものを染み込んでいくのを感じた。魅力的だと、そう思ってもらえるなら、肯定してもらえるなら、それに応えよう、酬いようと思えるのかもしれない。言ってくれたベースだって、信じてみたくなる。
「キレイになって絶対見返してやる!」みたいな他者への強い気持ちや反骨精神を私は持ち合わせていなかったから、あぁ、これが私にとっての「きれいになりたい」の意味なのかもしれないなと、ここ数日思ったりした。

循環する自信と美しさ

どんなパーツを持っていても、自信のある人は美しく感じる。立ち振る舞いに、しゃんと伸びた背筋。そして顔や表情にも。メイクをしなくたって、自信のある人は、私には堂々とその人らしく美しくみえる。
離婚してから、もちろん生活面での変化は多かったけれど、ふと一息ついてみると、この「美」に関する変化も、とても大きかったことに気づく。
いくつか化粧品を買い足したり、自分に似合う色は何色だろうと気にしてみたり、美容グッズも買ったりしている。そういう人間生活を生きるための余裕が出てきた。自分の管理できない領域、他人の不測の事態が不安で備えていた貯金だって、少し気楽に自分のために使うことができる。そもそもネットの検索内容が驚くほど健康そのものだ。メイクだったり、ヘアアレンジだったり、おしゃれな場所だったり、そういうものを調べたりしている。なんだかとても、普通の人っぽい。これはすごい。

朝のバス亭での待ち時間、目の前に赤色の半袖のワンピースを着た女性が並んでいた。こっくりとした綿の生地のワンピースは派手すぎずでも鮮やかで、ウエストにリボンのベルトが結んであり、とても美しいシルエットだった。髪を左にまとめて、右耳にはおおぶりのタッセルのついたイヤリングが目立った。とてもきれい。今までだったら、自分が何もできていないコンプレックスから、そういうハリのある美しい人から、なんとなく目を逸らしていたように思う。私はそちらにはいけないと。でも、今の私は、あぁ、ステキだな、綺麗だな。の後に、私もあれくらい色のしっかりした服も着てみたいな、もしかしたら似合うかもしれないな。と思えるようになっていた。
恐怖とか、虚勢とか、隠すのとか、ましてや心の疲弊でできないということではない、肯定感に裏打ちされた、自信を伴う美しさ。
貴方はそのままでも、美しい。
そういう、美しさと、その先を追えること、それがまた自信を作っていくのかもしれない。世の中の女性たちは、もしかしてこんな気持ちで化粧していたんじゃないか、鏡の前でそっと考える。そしてにこりと、笑ってみる。きれいになったね、なんて言ってもらうのは、きっと私はまた恥ずかしがってしまうと思うし、こんな歳で。とも思う。
でも、離婚を決めてから旅先で買ったものは、みんなきらきらしていて、きれい、かわいいで溢れていた。私は、本来はこういうものを持っていたし、きれいなものが大好きだった。
私が思うきれいに、そして、伝えてもらったきれいに報いたい、ちかづきたいな、と思える。それがとても、私にとって新鮮なことだった。

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