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「ルックバック」の修正について思うこと。見る人によって表現の中身は姿を変える。

本当は、次書くときは目標についての経過報告をしようと思っていたが、今日は色々考えたのでここに記そうと思った。

経緯

少年ジャンプ+で配信された、藤本タツキ先生の長編読切「ルックバック」内の表現が一部修正された。
読者からの指摘を受け、作者から修正の申し出があったということだから読む側は受け入れるしかないように思うが、やはり、いろいろ考えてしまう。

「説明することで差別を助長する」ということで、理由は説明されなかった。
説明しなかったことで余計差別は助長されたという意見も見るが、SNSの論調を見ていると、どちらの世界線でも結果は同じだったようにも思う。
そういう意味ではターゲットを絞らせない編集部の判断は仕方がないと思える。

クリエイターが見る犯人像「あれは、自分だったかもしれない」

主語が大きくなってしまったが、これは凡人たる自分もクリエイターの端くれとしてこう思う、ぐらいに捉えてほしい。

元の表現…
「絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」
は、創作する者にとってはごく感じたことのある感覚でヒリヒリする部分。
かく言う私も、
「こんなすごいの描いてる人は私の描いた作品なんか見たらツマンネって思うんだろうな」
とか
「才能がある上努力してこんなすごい学校出てる(入ってる)選ばれた人は私なんかゴミに見えるだろうな」
みたいな卑屈なことを被害妄想とわかってても感じる時は度々あって、あの犯人は自分と紙一重だとギクっとする。

「俺の作品をパクった」もごく身近なもので、そんな言いがかりをつけられる事もあれば、逆に自分もそう感じる事もある。
「このバズってる作品、2年前私が描いた内容と似てる。私が描いた時はバズらなかったのに…この人私の作品見てコレ描いたのでは?」(←そんなわけない)という黒い感情を覚えた体験は私にもある。
劣等感からの被害妄想は、不毛だと分かっていてもすぐ心を侵す身近なものだ。

あの犯人は挫折と劣等感と自意識過剰と嫉妬で犯行に至ったのだろうというのを詳しい説明なしに読み手に想像させる見事な表現だったと私は思う。

どこかで一歩間違えた時の藤野や自分の姿であったというヒリヒリ感、才能が人に与える負の影響、何故京本(美大生)が狙われたかという動機の根源であると感じるのだ。

だから、私はどちらかというと個人的には
「元のほうが好きだった派」ではある。
だからといって「変えるの反対」かと言われると、そうとも言い切れない。

精神疾患者から見る犯人像「またか」

そもそも、編集部は「どんな意見を受け変更したか」を公表していない。
なので、「精神疾患者(もしくはその関係者や医者)からの意見」
が変更理由である、というのは推測の域を出ない。
それを忘れないでおきたいが、抗議がTwitterに投稿されたこと自体は事実なので、このことについて少し考えたい。

変更反対派からは「病名などどこにも書いてない」「言われるまでそう思ってなかったのに指摘のせいでそういう目で見るようになった、差別の助長では」「そう感じる方が差別なのでは」「表現の自由を侵すな」などの意見がある。

まず、犯人を「そういう目で見ていなかった」は私も同じであるが
これは差別の意識がないからではない、無知ゆえだ。
疾患の具体的症状や一般的イメージに対し感知していなかったからに過ぎない。
無関心だっただけのくせに、「そう思ってなかったのにお前のせいで自分は差別意識を持った」という論調はあまりにも幼稚と感じる。

例え話は主題がズレる場合もあるのでちょっと気が引けるが、これを自分の話に寄せてみよう。

ニュースで事件が報じられる際「犯人はアニメのDVDや漫画を多数所持しており…」と言われた時に感じる感情がある。
「またか」
「またメディアは、おれたちオタクを犯罪者予備軍みたいに言うのか」
「犯罪とオタク趣味は関係がないだろ」
と。
その時のニュースでは「犯人はオタクだった」とも「オタクは暗くてキレやすいから犯罪を犯しやすい」とも明言されていない。でもそのような一般的イメージを一方的に振りまかれたと感じてしまうし、実際に振りまかれてきた。

結果、テレビドラマなどでアニメ好きのオタクが突然キレて凶行に出たり、ストーカーになったりする描写が一時期増えて偏見にウンザリした。

これと同じような体験を、抗議した人や差別の助長を危惧した医者も日々しているのだろうと思った。そして今回も感じたのだ。
「またか」
と。

影響力が大きい作品による、犯罪を犯す精神疾患者のイメージの振りまきは看過できないという指摘には、一定の理解ができる。

表現とは

見る人によって、表現の中身は姿を変える。
「ルックバック」のような余計な説明文を省き画面で魅せるような作品は特に
読み手の経験、生い立ち、知識、職業、家庭環境、等々様々な要素により受け取り方読み取り方があるだろう。
「罵倒する声が聞こえた」が比喩なのか、幻聴なのか、思い込みなのか、自意識過剰なのか、病気なのか、薬物中毒なのか、詐病なのか、そこには明記されていない。

「パクった」というのは藤本タツキ先生自体が受けたことのある言いがかりだ。
だからただ体験をもとにしたのかもしれないし、例の事件をモチーフにしたかもしれないし、別のモチーフがあったかもしれないし、色々まぜこぜかもしれない。

検閲や表現の弾圧はあってはならないことだ。
しかし、批判や指摘をする自由はあるべきだし、
それを受けどうするかも、作り手の自由である。
変えないこともできたはずだが、変えた。それが結果である。

私個人としては、変えるにしてもあの変え方には不満がある。誰もが納得する表現など存在しないだろうが、もっと良い落とし所があるようにも思う。しかし、「何を優先するか」は作り手が決めることだ。
私が勝手に犯人の犯行動機を自分ごととして受け取っただけで、美大生を狙う理不尽な事件であれば何でも良かったのかもしれない。
どういうつもりで描かれたものかは読む側にはわからない。

ただ、変えかたがあまりに急拵え感があった。(特に新聞記事部分)
本当にあのまま行くのか、それとも今後、もしくは単行本ではまた変わるのか
もうちょっと様子を見たい。
とにかく、単行本は予約した。

まあ色々書いたが、公式のすることに外野がとやかく言ってもどうしようもない。

この作品をどう受け取るかが、再び読者に委ねられた。
そんな気はしている。

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