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改めて、嫌われる勇気&幸せになる勇気(アドラー心理学)についてまとめてみる

2年前、肺炎で入院中のベッドで「嫌われる勇気」を読み、私の人生観は大きく変わった。

それ以来、著者の岸見一郎先生の本を読み漁っては、アドラー心理学を深く知ろうとしてきた。

何度もそれらの本を読み返す機会があるが、感想という形で残したことがなかったので、今回、改めて書いてみようと思う。

怒ることを自ら選択している

人はすぐ、かっとなって大声をあげたがる。

かくいう私も、本を読む前はとりわけ、子供の前で大声を上げ、怒りをあらわにしていた。

だがそれは、自分が「怒りたい」「大声を出したい」と選択した結果なのだ、と知る。

ちょっと待てば怒りは引くし、なにも、大声を出して怒る必要もないのである。というのも、子供はそのことを、してはいけないと「知らなかった」だけかもしれないからだ。

「知らなかった」ことに対して怒るのは、おかしなことだ。

小さな子供ならなおさらである。人生経験が、大人より圧倒的に乏しいのだから。

そして、怒ることとは言葉の暴力であり、愚かな行為である、との一節を読み、これまでの行いを心底反省したのである。

ほめない、叱らない

叱る、というのは怒ると同義である。

父親には、叱ると怒るは違うのだ。今は叱っているのだ、と言われたものだが、叱るという行為は、子供のしていることに「干渉している」ということになる。

子供のため、というのが実は、子供の自立を妨げる行為であると知り、はっとした。

やることのだいたいが否定され、自尊心が損なわれた。

そして、ある分野では褒められ、親の顔色をうかがいながら承認欲求を満たして生きてきた。

そんなわけだから、2年前にその事実を知って、「承認欲求を満たさなくても、貢献感が得られれば幸せを感じられる」と分かっていても、どこかではいつも、「承認欲求を満たしたい」と思ってしまう自分がいる。

長らくそういう環境で育ってきたのを、急に変えるのは難しい。

自分の子供には、なるべく「ほめない、叱らない」をしているつもりだが、徹底されているわけではない。

(余談:夏休みの毎日の宿題をさぼるのでやらせたいが、それは本人のためにも、あえて「やれ」と言わないでおくのがよいかと思っている・・・)

貢献感を得るには

岸見先生は、鼻歌を歌いながら家事をやればいい、とおっしゃっているが、なかなか現実、うまくはいかない。

意識して、「家族のために貢献している」と思ってようやく気持ちを落ち着けているような感じだ。

ここでも、承認欲求が顔を出すわけだが、自分の価値を、ここにいるだけでいいと思うためには、まだ訓練が必要そうだ。

「今、ここ」に集中する

アドラー心理学を知ってから、また、病気で入院生活を送る経験をしてからというもの、「今、ここ」を一生懸命生きようという気持ちが芽生えた。

これだけは、確実に染みついている感覚だ。

子育て中だが、子供と密に接する時間は人生のうちのわずかな期間。だから、子供と過ごす時間はできるだけ楽しく過ごしたい、と考えられるようになった。(そうはいっても、夏休みは長すぎるので退屈するが)

たとえ、今死んだとしても後悔しないようにしたい、と、テレビの視聴をほとんどオフにし、子供といる以外の時間は、勉強や読書、創作の時間に充てるようになった。

そうすると、今までぼんやりテレビを見ていた時間が極めて無駄に思えてくるし、読書や勉強をした後は、充実した気持ちになる。

周りには、「音や映像がないと寂しいから」とみてもいないのにテレビをつけっぱなしの人がいる。

脳にも悪い影響があるといわれているし、同じ時間で一つ賢くなれるのだから、私はぜひ、メディアオフ生活をお勧めしたい。

(もちろん、何をするのもその人の自由なので、あくまでも私の個人的な意見であるが)

あすか、50年後かわからないが、死の間際になって、「あれをやっておけばよかった」と後悔することがないように生きていきたい。

時は止めることはできないし、ひとしく過ぎていくが、「今」の積み重ねが未来を作ると知っていれば、「今」を一生懸命生きていこうと思うのは自然なことである。

アドラー心理学を真に理解するにはまだまだ年月を必要とするだろうが、一つでも実践して生きていきたい。



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