駅2

【連載】チェスの神様 第一章 #3 いけこま

#3 いけこま

 今日の晩御飯はひどい味がした。作った僕が言うんだから間違いない。食卓を囲む顔ぶれが違うだけで、こんなにも食事がまずく感じるものなのかとびっくりする。
 いつも面白いと思ってみているはずのバラエティー番組さえ、今日は一つも笑えない。笑っているのは兄貴だけだ。時の経過もやけに遅く感じられた。
「ちょっと、外に出てくる」
 おもむろに席を立つ。どこでもいい、とにかくここにいたくなかった。
「どこまで行くの?」
 背後からいけこまの声が聞こえた。
「どうせ駅だよ、きっと。あいつ、鉄ちゃんだから、電車眺めるのが好きなんだ。いつでもふらっと出かけるんだよ」
 兄貴が僕の代わりに返事をしたのが聞こえた。

   *

 月曜の七時過ぎ。ちょうど電車が到着したらしい駅は、新学期が始まったばかりとあって、中高生が多かった。だが、乗客が散ってしまうと途端に人気がなくなった。
 小さな駅だ。駅員すらいない。だけどこの小ぢんまりとした雰囲気が好きだ。
 次の電車が来るまで二十分ばかりある。それまでの間、駅のベンチに座ってぼんやり過ごそう。
 だって、新学期早々、兄貴が結婚して奥さん連れて帰ってきた挙句、その奥さんが学校の保健室の先生だなんて。なにがなんだかわからなすぎる。

 屋根すらないホーム。外灯と月だけが僕を見ている。
 兄貴が家を出てから丸五年。高校生活も三年目を迎えた。この生活にもすっかり慣れて自分のペースが出来上がっていたし、このまま自由に暮らしていけると信じて疑わなかった。それが一瞬にして台無し。全部兄貴のせいだ。
 ……といいたいところだけど、冷静になって考えてみれば、これは起こるべくして起きたことかもしれないとも思う。
 南高のチェス部に入りたくて猛勉強の末、入試に合格した。でも勉強したのはその時だけで、成績はこの二年間ずっと低空飛行。そんな僕だから、「この成績じゃ大学進学も就職もできないから勉強しなさい」と先生や母さんに毎日のように言われている。
 一方、いわゆる名門大学に入学して優秀な成績を修めた兄貴は、誰もがその名を知っている商社に勤め、美人と結婚して実家に戻ってきた……。「お前も勉強すればおれみたいな人生を送れるし、母さんを喜ばせられるぞ」と言われている気がしてならなかった。
 そうは言っても、僕にはチェスしかない。こんな僕に何ができるというんだ? そもそも、勉強していい成績をとることだけが親孝行なのか? 母さんが喜べばそれでいいのか? 
 ……ダメだ、考えすぎて頭がしびれてきた。いつの間にか呼吸も浅くなっている。どおりで息苦しいわけだ。一度落ち着いて深呼吸をする。
「いたいた。彰博君!」
 誰かが僕を呼んだ。ゆっくりと顔を向ける。
「いけこま……じゃなくて、えーと」
 とっさに何て名前を呼べばいいかわからなくて戸惑う。あえて離れたのに、また現れた兄貴の奥さん。僕のことは放っておいてほしいんだけどな。
「いいよ、いけこまで。呼ばれ慣れてるしねえ」
 迎えに来たのか、すぐに帰りそうもない。仕方ない、話を続けるしかない。
「あの。先生って、つけた方がいいですか?」
「身内なんだから、いらないでしょ。学校ではなるべくつけて欲しいけど」
「それもそうですね」
「緊張してる?」
「少し」
「うん。あたしも」
 なんだ、いけこまもか。お互いさま、と思ったら少しほっとした。
「隣、座っていい?」
「生憎、僕の座ってるのと一緒で先生用じゃないですけど、それでもいいんですか?」
「はは、面白いこと言うねえ。そんなの、気にしないから大丈夫。よいしょっと」
 いけこまがどっかと腰掛けると、ベンチ全体がぶるぶると震えた。
「どうしてここに来たんですか?」
 ベンチに座ってるせいもあるけど、僕は真正面を向いて言った。いけこまは即答する。
「彰博君と話したかったから。……というのもあるけど、ご両親との会話が保たなかったのと、場の空気に耐えられなくて。慣れなきゃいけないのにね」
「逃げてきた?」
「うん。駄目だね、あたし。こんなことで同居だなんて」
 大人でもそんな風に思うものなのか。ちょっと意外だった。
「なら、どうして同居しようって思ったんですか? 共働きなら、産休以外は収入がそれぞれにあるんでしょ? 生活できそうな気がするんですが」
「はは、鋭い指摘。でも、お金の問題じゃないの。実はね、みっちゃんが……。あなたのお兄さんがそうしようって言ったのよ」
「兄貴が?」
「聞いてない?」
「はい。聞いてないです」
 兄貴はどこまでも僕に情報を隠したいらしい。かわいそうに思ったのか、いけこまが教えてくれる。
「ご両親って、還暦過ぎてるでしょ? これから衰えていく一方の両親のために、早めに同居して万一に備えたいんだって。ちょっと気が早い気もするけどね。だってご両親、とっても元気なんですもの。あたしが家事を手伝う隙がないくらいに」
「確かに、気が早いかも。けど、そう思うなら兄貴に言えばいいのに」
「実際にお会いするまで、あんなにお元気だって知らなかったの。だから、今日来るまでは家事の大半はあたしがしようって心に決めていたくらい。それが……。もう、何を言っても愚痴になっちゃうね」
 いけこまは深くため息をついた。
 僕にはわからないけど、結婚とか同居とか、大人は大人で大変なんだなってことはよく分かった。
 ちょっと考えて、いけこまが口を開く。
「……聞いていい? これからずっとあたしが家にいること、どう思う?」
「どうって……」
 それ、僕に聞く? いけこまの戸惑いが、僕の戸惑いなんか吹き飛ばすくらい激しいものだと気づく。
 僕だけがこんな気持ちになっているわけじゃない。いけこまだって、それと同じくらいに不安な気持ちを抱いている。不安な気持ちの者同士、仲良くしようとでもいうかのようにどんどん話しかけてくるのが何よりの証拠だ。
 ただし、兄貴ではなく、僕に。違和感が生じる。
「それって、僕じゃなくて兄貴にした方がいいと思うんですけど。本人には言いにくいんですか?」
 僕から問いかけると、いけこまは口を結んで黙り込んだ。
 言えない理由は何となくわかる。とにかく、兄貴は自分で勝手に進めてしまうところがあって、周りの気持ちを考えられなくなることがしばしばだ。相談もなしで、大学入学の手続きとアパートの契約を済ませてしまったので、両親がとんでもなくあきれたことがある。
 逆に僕は慎重派。一人では何も決められない。いつだって周りに振り回され、からめとられてきた。今回のことだって、このままじっとしていたら兄貴の旋風に巻き込まれてしまうだろう。
「なら、僕から言いましょうか?」
 口が勝手に動き、言葉を発していた。いけこまが「え?」と返すのと同じ気持ちを僕自身抱く。だが僕の口は止まらない。
「いけこまが悩んでることにも気が付かない、どうしょうもない兄貴には僕から一言いってやりますよ。大丈夫。人付き合いは苦手だけど、兄貴にならちゃんと言えます」
「彰博君……」
「僕ら、今日から家族じゃないですか。困った時は力になりますよ」
 いけこまがうっすら涙ぐんでいるように見えた。
「ありがとう。彰博君の気持ちはすごく嬉しい。でも……。でも自分で言うわ。すぐには無理かもしれないけれど、ちゃんと自分で言わなくちゃ意味がないと思うの」
「いけこまは強いんですね。でも、我慢しちゃだめですよ。今回は、僕から言いますよ」
「でも」
「僕だって、変わりたいって気持ちはおんなじですから」
 そこまで言い切ってようやく自分の本心を知った。
 このままじゃまずいって気持ちはずっとあった。変わるなら今しかない。そのチャンスを兄貴が、いけこまがくれた。そんな風に思えてきた。さっきまでの不満や劣等感が闘志に変わる。
「ふふ。彰博君とはなんだか仲良くできそう」
 ようやくいけこまが笑った。吹っ切れた様子の顔を見て、僕もいけこまとはうまくやっていけそうだと思った。
「あ、電車が来た」
 JR川越線の電車は単線のため、上りか下りのどちらかしかホームに停車できない。そのうえ、四両編成。本当にローカルな路線だ。
「乗ったこと、あります?」
「ううん。まだ」
「一度乗ってみてほしいです。そりゃあ、車を運転できる人が川越や大宮行くのにわざわざ乗るのもなぁって思うかもしれないけど、人っ気のなさと適度な揺れがいいんですよね。必要としているわずかな人のために走るこいつが好きです。僕もそういう人間になりたいって思います」
 座席の数を減らしても多くの人間を乗せ、都心まで運行するのが当たり前の時代。そんななか、家路につく人のために運航しているこの路線が僕をほっとさせるのだ。
「あたしの生き方って、急行電車なのかもしれないなぁ」
 いけこまがぽつりとつぶやいた。
「なんか、彰博君と話していると、自分の生き方を考えさせられるっていうか……もっと気楽に生きていいんだなって思える」
「そんなに急いでたんです? 人生」
「気づいたのは、たった今だけどね。この路線って、急行はないの?」
「あるわけないでしょう。各駅停車です。終点までね」
「そっか。いいわね。今度、これで終点まで行ってみようかしら」
「いいと思います。初めて乗るときは、僕が案内しますよ」
「優しいのね。ありがとう。でも、電車くらい一人で乗れ……」
「まず、自動ドアじゃないんで、この車両。そこから覚えないと」
「え?!」
「ほら、知らなかったでしょ」
「……はは、初めての時はいろいろ教えてもらわないとダメそうだね」
 いけこまの苦笑いにつられて僕は笑った。ほんの数十分前まで感じていた嫌な気持ちはなくなっていた。
「駅、誰もいなくなっちゃったね」
「うん。乗降客掃けたらしばらくはこんな感じ。なんせ、次の電車が来るまで時間があるんで」
「そっか。ほんと、ローカルだね」
 帰ろうか。いけこまの言葉に、僕はすんなり「うん」と返事をした。楽しげに帰宅した姿を見たら兄はなんて言うだろう。「仲良くするなよ、おれの奥さんだぞ」って不満げな顔をするのが目に浮かぶ。とことん笑顔で帰ってやろうと決めた。


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