桜

【連載】チェスの神様 第一章 #1 噂

#1 噂

 今年の春は珍しく入学式まで桜が保った。
 昨日まで肌寒い日が続いていたが、今日は澄み切った青空が広がり、気持ちのいい陽気だ。
 真新しい制服に身を包んだ新一年生が、桜の下で写真に納まっている姿があちこちで見られる。初々しい、と感じてしまうあたり、僕もすっかりこの学校に慣れ切ったということか。
 二年前を思い出す。あの日の桜はとうに散ってしまっていたが、わずかに花の残った桜の木の下で記念撮影をした。中学の同級生は一人もおらず、僕は本当に一人の状態から高校生活をスタートしたのだ。
 不安はなかった。やりたいことがあった。それに打ち込んでいれば僕は僕でいられる。


 放課後、僕は部室に向かった。三階にある西側の小さな一室。九名の部員で構成される「チェス部」の副部長をしているのが僕だ。
 ドアは開け放たれていた。中をのぞくと、一番に来た部長が風を通そうと部屋の窓を開けているところだった。
 吉川映璃(よしかわえり)。僕はエリーと呼んでいるが、鍵開けは部長である彼女の仕事だ。僕は責任も少なくて気楽。足を向ければたいてい彼女はもう部屋を開けてくれている。しっかり者だから部長に適任なのだ。
「いい風だね」
 エリーの背中に向かって言った。彼女は振り向かずに、
「アキもここにおいでよ。みんなが来るまでここで日向ぼっこしよ」
「いいね」
 陽だまりが好きだから、僕は迷わずエリーの隣に立ち、窓の外を眺めた。
 温かさが気持ちいい。不意にあくびがしたくなる。
「……ねぇ、一戦付き合ってくれない? 後輩たちが来る前に」
 急にそんなことを言われたので、あくびが中途半端になる。
「エリーがそんなことを言い出すなんて珍しいね。雨が降らなきゃいいけど」
「そういう日もあるんだって。いいでしょ? どっちが先手?」
 エリーが白と黒の駒を一つずつ持って差し出す。
「じゃあ、僕は白。先手で。エリーは強いから」
 部長にふさわしく、チェスの腕も確かだ。高校に入ってから始めたとは思えないほど強い。小さいころからチェス漬けだった僕が手ほどきしたっていうのもあるとは思うけど、エリーにはチェスの素質がもともと備わっていたと思っている。
「よろしくお願いします」
 一礼をして、さっそく駒を動かし始める。
「ねぇ、あの話、本当なの?」
 二手進めたところで、エリーが不意に尋ねた。
「あの話って、なんのこと?」
「すごく聞きにくいんだけど、そのぉ、『いけこま』が結婚したって話。アキのお兄さんと」
 持っていたチェスの駒を落とす。
「……な、何、その話。どこで聞いたの? 誰情報? 僕、知らないんだけど」
 次の手を考えるどころじゃない。頭の中が真っ白になる。
 いけこまっていうのは、保健室の先生をしている池村駒(いけむらこま)先生のこと。都内で会社員をしている兄貴と接点があるはずがない。
 エリーは続ける。
「さっき、鍵を取りに行ったときにね、職員室で聞いちゃったの。今日から野上家でお世話になるって話してるのを」
「だけど、どうしてそれで僕の兄貴と結婚ってことになるわけ? いけこまが『野上』って言ったとしても、そんな苗字の人はどこにでもいる」
「私もそう思ったんだけどさ、一緒に話してた先生が『野上君とうまくやれるといいわね』って。これはもう、アキのうちの話でしょ?」
「いや、だから僕は聞いてないよ、そんな話。だって結婚だなんて話になったらふつう、事前にあいさつに来たり、顔合わせしたりするんじゃないの?」
「私に聞かれてもわかんないよ。じゃあ、アキは知らないんだ」
 知らない、というより知らされてないといったほうが正確だろう。もしその話が事実なら、僕は家族から隠し事をされていることになる。
「……いけこまに聞いてくる」
 頭が大混乱している。チェスをしている場合ではない。気づけば走っていた。
「私も行くよ!」
 後からエリーもついてきた。


 しかし、職員室にいけこまの姿はなかった。保健室にもいない。聞けばすでに帰宅したという。
「ますます怪しいね」
「ごめん、僕も帰るよ。今日はチェスをやれる頭じゃない」
「わかった。真偽のほどがわかったら教えてよね。情報つかんだの、私なんだから」
「はいはい。明日はちゃんと出るから」
「うん、それじゃまた明日ね」


 教室を出て自転車にまたがった僕は全力疾走で漕いだ。家まで二十五分。その間もずっと混乱が続いた。
 僕だけが知らされなかったこと。兄貴がなぜいけこまと知り合ったのか。そもそも、順調な社会人生活を送り始めたばかりの兄が、なぜ突然結婚する道を選んだのか……。
 いつもと同じルートのはずなのに、なかなか家につかないような感覚に陥る。

 もっと早く、もっと早く……!

 自転車を漕げば漕ぐほど、頭の中は空回りしていく。
 語学堪能。成績優秀。大手商社に勤務。絵にかいたようなエリートコースを進む兄。
 それに比べ、僕はといえば普通の高校生。成績は下の下。チェスは得意だけど、それだけ。先のことは何も考えちゃいない。卒業後のことはもちろん、大人になっていく自分を想像できていない。
 兄貴はよく言ったものだ。いつまでも「今」だけを見ていたらいつか後悔するぞ、と。
 今回のことは、何も考えず、のうのうと生きてきた僕への当てつけとしか思えなくなっていた。

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