歌書よりも軍書に悲し吉野山

私の記事「正行(まさつら)」をお読み下さいました或る読者様が、吉野の如意輪観音様について書いたメールをお送り下さいました。
私は胸が熱くなりました。
 
歌書よりも軍書に悲し吉野山
と詠まれた吉野。
 
万感の思いを込めて、返信を書かせていただきました。
皆様にもお読みいただきたくて、以下にコピーさせていただきます。
 
「素晴しい御話、有難うございます。
私は吉野に行ったことがございません。
如意輪堂の壁板には、二十一歳の楠木正行が矢じりでしたためた辞世の歌
『かへらじと かねて思へば 
    あずさ弓 亡き数にいる 名をぞとどむる』
が七百年の風雪に耐え、今も残っているのでしょうか。
 
野崎徳洲会病院の近くには楠木正行のお墓があるそうで、是非一度お参りしたいと思いながら、まだ一度も野崎へ行ったこともございません。
 

公家たちは楠木正成に無理解で、僅かな手勢しか与えず死地へと赴かせた。
足利尊氏追討のため。
見かねた尊氏は、正成に
「共に手を取り合って戦おうではないか。 
 新しい世を築くために。」
と必死で呼びかけたが、正成は拒否。
死を覚悟した櫻井で、正成は十一歳の嫡男 正行を呼び、故郷へ帰る様にと申し渡した。
その時の正行の言葉を歌ったのが
♪父上 如何にのたまふも  
見捨てまつりて 我ひとり
如何で帰らん帰られん
この正行は歳こそは
いまだ十一幼けれ
御供つかへん 死出の旅♪
 
しかし、正成は正行を故郷へと返した。
時は旧暦六月二十五日
 
 
きっと正成は内心、公家たちの犠牲になるのは自分一人で沢山だ、と思っていたのでしょう。
正行には異なる生き方をしてほしいという切なる願いを込めて故郷へ返したのではなかったか、と私は感じます。
 

しかし十年後、正行は戻って来た。
吉野の南朝の御所に馳せ参じた正行に、若い後村上天皇は
『そなたこそ、我が最高の友』
とおっしゃった。
こたびも公家たちは無理解で、僅かな手勢しか正行に与えず、決戦の地 四条畷へと赴かせた。
死を覚悟して正行は、吉野の如意輪堂の壁板に、永遠に消えぬ様、矢じりで辞世の歌をしたためた。
「かへらじと かねて思へば
 あずさ弓 亡き数にいる 名をぞとどむる」
そして、髻を切って如意輪堂に捧げ、四条畷へと出陣。
自らを最高の友と呼んで下さった後村上天皇の御言葉に奮い戦い二十一歳の命を捧げた楠木正行。
 
正行の許婚 弁の内侍は正行の形見の短剣で髪をおろし、その黒髪と正行の遺髪を納めた塚は『至情塚』と呼ばれた。
 
 
尊氏のどこが悪いのか、と私は叫びたい。
公家たちよりも よほど人間的ではないか、と。
・・・それでも、そんな思いを圧倒し封印してしまうほどの正行の心ばへ」

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