私の中の私の話

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「私」という言葉がある。Wikipediaによると、日本語における一人称の一つで、話し手自身を指す。自称とも呼ぶ。面白いもので、インド、ヨーロッパ語族に連なる英語だと,,I"でドイツ語だと,,ich"、フランス語だと,,je"、イタリア語だと,,Io"スペイン語だと,,Yo"、ラテン語の,,ego"のように基本一つの言語につき一つの「一人称代名詞」なるがこれが日本語だと「僕」「わたし、あたし」「俺」、今はあまり使われなくなったことばだと「わい」「おら」「拙者」「みども」「わらわ」のようなものもある。

ヨーロッパ諸語の一人称、二人称代名詞が数千年の歴史を持っているそうだ。それに比べると、日本語の人称代名詞の移り変わりの早さはあまりにもめまぐるしい。現代標準日本語のいわゆる一人称代名詞である「わたし」「ぼく」などは、古代日本語に遡ることができないばかりでなく、「ぼく」は実は口語に於けるその使用の歴史が僅か100年あまりしかない。現代も口語で使われている一人称でもっとも古い物はかおよそ鎌倉時代から続く「おれ」だと言われている。
日本語においては有史以来、自分を指す代名詞と、相手を言う代名詞は、次々と交替している。非常に興味深いことに、新しく人称代名詞として用いられるようになることばは、本来は何か具体的な意味を持っていた実質詞からの転用だという点である。つまりもともと代名詞でなかったものが使われているのだ。
いま標準語で使用されている自分を指すことばの、「わたし」や「ぼく」、「おれ」、そして相手を指す「きみ」「あなた」などである。例えば「おれ」は自分を指す「己(おのれ)」が崩れてできたとされている。また「あなた」は離れた場所や今より以前をあらわす「彼方(あなた)」が語源である。「おまえ」「こちら」といった人を指すことばも、元来は、場所や方向を表わす指示代名詞であったものを転用して、間接的に、その場所にいる人を表現するという、一種の婉曲表現と言えるだろう。それ以外にも「先生」や「お兄さん」のように、自分のことを客観視して表現することもある。このように、一人称代名詞を用いて「自分」を表現する方法がたくさんあるおかげで、我々は言葉の上で「多種多様な自分」を表現することができる。
前述したインド・ヨーロッパ語族、例えばラテン語の,,ego"、英語の,,I"等が話し手及び話しの相手を意味する専用のことばであり続けているのとは大きな違いである。このことから察するに、昔の日本人は「話し手」あるいは「話し手の相手」と「場」や「状況」の境界があやふやだったのではないかと思われる。だからこそ、場や状況を示す言葉が転じて人称代名詞になったのではないだろうか。このNoteでは主体、いわゆるどのような「私」が存在するのか、日本語において「私」は「場所」や「状況」(後述する「世界」)をどう認識しているのかについて書いていく。


「私」というのは簡単だが、人間、誰だって色々な側面を持っている。「一人でいる時の私」、「家族といる時の私」、「パートナーといる時の私」、「職場での私」の様に、誰と一緒にいるか、どの様な環境にいるかによって、表に出てくる「私」は異なる。作家、平野啓一郎はこの様に人が、環境や一緒にいる相手によって「表に出す自分を変えていく事」を個人より小さな単位「分人」と定義した。背景やコンテクストは違うが、性格心理学でいう「役割性格」や「社会的性格」なども同じ内容を指していると思われる。

ここで話題にするのはそういった「外に出てくる私」、いわゆる、「場や状況に登場する私」ではない。「私の中にいる二人の私」を取り上げたいと思う。かと言って「外に出てくる私」と「私の中にいる二人の私」が全く関係ないわけではないがその関係についてはまた別で書こうと思う。

仮に「私の中にいる二人の私」を「体験する私」と「解釈し語る私」と名付けよう。端的に言うなら右脳と左脳、感情と理性とでも言えばいいのだろうか。
体験する私は「今この瞬間」のみに存在しているのだが、残念な事に、「今、この瞬間」のみにしか存在できない。あの時は強い感情を感じたのに思い出してみるとあまり強い感情を抱けない。そんな体験をした事がある方もいると思う。
「解釈し語る私」は「体験を解釈する」為に存在する。但し、五感で感知できないものは認識しようがないし、体験の全てを記憶しきることはできない。五感と記憶が有限である以上、「解釈し語る私」が語る物は不完全だ。また、語るというプロセスの性質上、このプロセスにはほんの僅かな時間が必要になる。つまり我々が何かを語る時には、「今この瞬間の事」と語っているのではなく、「今この瞬間より過去の出来事」を語っている。
マイケル・S・ガザニガの分離脳の実験(長くなるので内容は省略。詳細は彼の著作を読んで下さい)の通り、「解釈し語る私」は物語の不完全な部分を巧妙に補填する。それも本人には気づかれないようもっともらしい理屈を並べてだ。
実験によると、「解釈し語る私」は体験のピークの部分と最後の部分を特に引用するそうだ。つまり、「解釈し語る私」は「体験する私」が体験した「ハイライト」と「最後」以外はほぼ無視してると言ってもいいだろう。体験量や、体験の長さは完全に無視しているわけだ。このことを「ピーク・エンドの法則」という。例えていうならば映画の予告編のようなものだろう。不思議なもので、どんな駄作でも予告編を見ると面白く見える。それもそのはずだ。予告編は集客のために作られている。そのためには映画の面白そうな所だけ切り取ってダイジェストのようにせざるを得ない。予告編のつまらない映画を誰が見にいく気になるだろうか。(シン・ゴジラはこの構造をうまく利用した予告編を作成して興行的に成功したが、それはまた別の話)。また、「終わり良ければすべて良し」とはよく言ったもので、途中いろいろなことがあっても最終的に丸く収まればいいと思われている。

また、感情も体験の一部分である以上、感情の完全なる言語化は不可能だともいえる。「怒った」と言うのは簡単だが、ハイコンテクスト故に、欠落した情報も多い。だから昔の人は「はらわたが煮えくり返る」「頭に血が上る」の様な身体的変化を通して心情を吐露したと思われる。この表現を使う人は本当に腹部に熱を感じたり、頭に血が上っていくのを実際に体験したのだろう。また英語には,,gut feeling"と言う言葉がある。日本語に直すと「虫の知らせ」や「直感」と言う意味なのだが、この,,gut"とは実は「内臓」と言う意味なのだ。テニスやクラシックギターで使われる弦をガット弦と言うが、これも昔は羊の腸を乾燥して細く切ったものをより合わせたことに由来する。「虫の知らせ」や「直感」はおおよそ、我々の五感以外の器官、いわゆる「第六感」が何かを感知した状態と説明される事が多いが、それが内臓を使った表現になるのは実に興味深い。
さらに面白い事に「腸が煮えくり返る」や「頭に血がのぼる」を文法的に解釈すると主語はなんと「私」ですらない。「怒った」の場合は「私は怒った」のような「私」を主語にした文章を作ることができるが「私ははらわたが煮えくり返った」ではどうにも文法的に整合性が取れない。正しく書き直すなら「私は腸が煮えくり返るのを感じた」のようになるだろう。
この二つの文章、「私は怒った」「私は腸が煮えくり返るのを感じた」はどちらも怒りを表現しているが、実際に「私」のとった行動は大きく異なる。前者は「私」が怒っているのに対し、後者は「私」は感じているだけだ。
つまり前者の私は「能動的」であるのに対し、後者の私は「受動的」なのである。
ちなみに「腸が煮えくり返る」英語では,,I make my blood boil~となる、直訳すると「血液を沸騰させる」とでも言えばいいだろうか。この表現も能動態なので、この辺りにも国や言語体系における身の捉え方の違いが見える。

話が逸れてしまったので元に戻そう。内臓あるいは身の一部分の状態が変化する事で何かを感じ取るという表現は、どうやら洋の東西を問わずあるようだ。何らかの感情を感じた際は人体の特定の部分の体温が上がるという実験結果もある。個人的には身体的変化を用いた方が、伝わりやすい気がする。

感情も体験も完全なる言語化が不可能、ということは我々は世界を言葉で完全に認識することができないということである。ここでいう「世界」とは、「私以外の全て」を指し示す。つまり、今貴方が見ているスマホやパソコン、隣にいる貴方の大事な人、聞こえてくる車の音や入っているお風呂の温度、アロマの香り等、五感を通して知覚している物全てが「世界」である。
しかし、我々はそれでも世界を認識している。例えば「新宿」といえば行ったことがある人なら、どの辺りか想像できるだろう。「リンゴ」でも「サッカー」でも同じだ。では我々はどのように不完全な言葉で世界を認識しているのだろうか?

これについては「陰陽師」:夢枕獏より引用したい。

「”呪” とはなんであろう?」
すると晴明は、庭に咲く花を指差して答える。
「あそこに花が咲いているであろう。あれに人が”藤”と名を付けて、みながそう呼ぶようになる。すると、それは”藤の花”になるのだ。それが最も身近な”呪 ”だ」

つまりその花に「藤」と名付けた事により、世界は「藤」と「それ以外」に分割されたのだ。これは大変便利な事である。こうする事で、藤の花を見れば「ああ藤だな」と即座に判断ができる。つまり、いちいち「これはなんだろう」と考える必要がなくなるわけだ。またこうする事で脳の使用量を著しく減らす事ができ、ひいては脳の消費カロリーを減らす事につながるのだ。さらに、世界の分割が進むことにより他の人と手軽に情報、例えば「どこに何がある」や「誰が何をした」のような事実を共有することもできる。情報とは本来目に見える物の仔細を表すものだが世界の分割により、目に見えない物、例えば「神話」や「宗教」、「学問」果ては「国家」や「人権」、「ビットコイン」と言った目に見えない「概念」の共有が可能になった。ユヴァル・ノヴァ・ハラリは著書「サピエンス全史」の中でこのような目に見えない共有された「概念」を「共同幻想」と名付け、ジャン・フランソワ・リオタールは「皆がそれに巻き込まれており、その価値観を共有していると信じるに足る筋書きを提供してくれる共有された概念」を「大きな物語」と名付けた。

もう一度言おう。我々は言葉によって世界を分割、解釈している。そうしなければ、この玉虫色の世界を認識できないのだ。虹の色数が国によって違う話は聞いた事があるだろう。日本では「赤、橙、黄、緑、藍、紫」だが、アメリカイギリスでは六色、フランス、ドイツ、中国では五色だそうだ。ゲームが好きな人ならば「メタルギアソリッドVファントムペイン」を遊んだ事があれば、近い話題「思考は言葉に宿る」が取り上げてられているのを知っているかもしれない。
「言葉によって世界を分割し解釈する」は仏陀の時代から言われてきた言葉だ。人によっては「分離の相」「ベクトルの世界」「世界の有限化」「微分された世界」の様に表現しているが、実際、指している事象はどれも同じだと思われる。座学だけでは足りず、実学、つまり体験が必要なのもこれに起因する。体験には言葉では網羅しきれないほどの情報が込められているのだ。

残念ながら言葉はどうしようもなく不完全であり、有限だ。ケーキを切り分ける作業を考えてみよう。実際にやったことのある方ならわかるだろうが、ケーキを切る作業、特に生クリームが乗ったケーキを切るのはなかなかに難しい。事前にナイフを温めるなどのテクニックも勿論あるが、そういったテクニックを使わないと、ケーキを切り分けることはできてもナイフにクリームがこびりついたり、スポンジの屑がこぼれてしまい不恰好になってしまう。これを世界と言葉に当てはめると、ホールケーキが「世界」、切り分けられたケーキが「分割された世界」で、ナイフについたクリームやこぼれたスポンジ屑が「分割の際にこぼれ落ちた何か」だ。切り分けられたケーキを寄せ集めても元のケーキにはなり得ない。


言葉による世界の分割は人類の進歩に多大なる影響を与えた。詳細は「サピエンス全史」の上巻第2章あたりを読んでいただきたい。しかし、その一方で大きな問題を生み出した。それは「今に生きるか過去に生きるか」「体験を置き去りにした解釈の先行」、「先入観問題」そして「定義の問題」とでも言えばいいだろうか。

今に生きるか過去に生きるか」とは言い換えると「体験する私と解釈し語る私のどちらが優位になるかという事」だ。

もう一度我々の認識プロセスを確認しよう。我々は五感を通して世界から何らかの情報を受け取る。その後脳がその情報を処理し認識、場合によっては適切な言葉を当てはめる。ここまで至るのにほんの僅かな時間が必要なのは上記の通りだ。
つまりこの認識プロセスが働いている以上、我々は過去しか認識することができない。言語化をするならば尚更である。つまり、「体験する私」は言葉を持たない。いや、持ちようがない。なぜなら、我々は体験した後に適切な解釈、言葉を当てはめる事しかできないからだ。適切な解釈、言葉は必ず体験の後に来る。体験の前に来る解釈、言葉については「先入観の問題」で書く。
言葉は非常に便利な道具だ。サピエンス全史にも書いてある通り、我々は言葉を使い、共同幻想を作り、今日まで発展してきた。言葉がなければ、不可能だったかもしれない。そのメリットを最大限に享受する一方、言葉により我々の「今を体験する能力」は退化してしまったとも言えるだろう。

体験を置き去りにした解釈の先行」とは、要は世界を分割したことにより、「脳が似たような事象を一括りに判断してしまう」ことである。

リンゴを例にすると、世の中にはたくさんのリンゴの品種が存在する。リンゴが好きな人はわかるだろうが、リンゴは品種によって味が異なる。甘いのから酸っぱいのまで様々だ。リンゴを味わう事をここでは便宜上「個々のリンゴの体験」と名付けよう。本来はリンゴを触る事も、見る事も匂いを嗅ぐ事も「体験」なのだが、リンゴが食べ物である以上「味わう」が一番わかりやすいと思われる。
専門家やリンゴ農家、あるいはリンゴ好きならば差異を見分ける事ができるだろうが、そうでない一般人にとってリンゴの品種を見分けることは非常に難しい。ある人にとっては「津軽」や「富士」でも、ある人にとっては「リンゴはリンゴ」なのだ。


つまり、世の中に全く同じリンゴは1つもない、同じ「津軽」もなければ同じ「富士」もない。個々のリンゴの体験は別物のはずである。それにもかかわらず、ある特定の条件を満たす物を「リンゴ」と名付けたせいで、言うなれば「リンゴの体験」というものが出来上がってしまい「個々のリンゴの体験の差」が置き去りにされてしまうことである。
要するに今この瞬間まったく新しいリンゴを体験しているはずなのに、過去のリンゴの体験が引っ張り出されてしまい、今をきちんと体験できなくなってしまうのだ。過去の体験は「リアリティ」はあるかもしれないが「リアル」ではない。上気した通り、人間の記憶は有限である、しかし世界は無限だ。ここでも無限を有限化するプロセスが行われているのである。
これが「梅干し」になるともっとわかりやすい。梅干しを食べた事がある人は梅干しが酸っぱい事をご存知だろう。そうやって梅干しの味を体験した後に梅干しを見たり「梅干し」という言葉を聞いたりすると唾が出てくる、こんな体験をした方もいると思う。実際に梅干しを食べた、味わった、体験した訳でもないのに体は反応してしまい唾が出てくるのだ。

それだけではなく、「リンゴの体験」そのものすら置き去りにされることもある。

脳幹網様体賦活系をご存知だろうか?

脳幹の中には脳に向かう神経の束があり、これを「網様体」といい、特に脳幹内の網様体は「脳幹網様体」という。非常に簡単に説明をすると、脳内にあるフィルターのような役割をする器官である。ではこのフィルターはどのような役割をするのだろうか?簡単な実験をしてみよう。仕事場や大学などの学校を想像して頂きたい。その場所の壁や床の色、模様はどんな色だろうか?

正確に思い出せる方も中にはいるだろう。だが、大半の人は思い出せないはずである。中には思い出せたとしても、実際とは違っている場合も多い。普段から見ているのにも関わらずである。
逆に欲しい物や気になる物は特に意識していなくても目につく体験をした方もいると思う。カクテルパーティー効果のように特定の音声だけはよく聞こえるのもこの一種だ。

つまり、脳幹網様体賦活系は自分にとって必要な情報だけをピックアップして取り込む働きをする。そして必要でない情報をインプットしないようにガードする、簡単に言うと興味のあるものしか目や耳に入ってこないようになっているのだ。一体何の為に?もちろん脳を消耗させない為だ。脳というのは高機能なプロセッサーである一方、カロリーを大量に消費するという側面も持つ。つまり、体験したことを逐次脳を使って処理していたのではカロリーの補給が到底追いつかないのだ。そこで省エネのために脳幹網様体賦活系が活躍するのである。
先の例であげた「リンゴの体験」がこのフィルターに弾かれてないと誰が断言することができるのだろう。

先入観問題」とは「脳が以前の体験をもとに「こういうものが○○だ」と決めつけ、その通りに知覚した物を判断してしまう事」だと言えるだろう。いわゆる勘違いである。
今度は麦茶を例に取り上げよう。真夏に飲む冷えた麦茶は美味しい。読者の中に麦茶だと思って飲んだら麺つゆだったという経験をしたことがある方はいないだろうか?麦茶の色も麺つゆの色ももちろん濃度によるが、濃い茶色である。市販の物で瓶やペットボトルに入っていれば見間違えることはないだろう。しかし、同じような容器に入っていれば見間違えてもおかしくない。
以前何かの記事で読んだが、医療ミスほどではないのだが、ある病院で「左」と「右」を間違えるミスが多発したことがあったらしい、そこでその病院が行なった対策が「ひだり」と「右」に表記を変えたそうだ。なるほど、両方とも漢字ならば「エ」と「口」の部分しか違いがないため一瞬で見分けるのは難しいが、ひらがなと漢字にすることで、見た目の差異を増やし、見分けるのを容易にしたのだろう。
ここまでは「既知のもの」を「既知のもの」と勘違いする事例を挙げたが、これは「未知のもの」を「既知のもの」と勘違いする場合にもありえる。
ヨシタケシンスケ作の絵本「りんごかもしれない」はリンゴに見える赤くて丸い何かを「ひょっとしたら○○かもしれない」「ひょっとしたら未知の何かかもしれない」と様々な切り口で考えており、この問題を非常にうまく取り上げていると思うので機会があれば是非読んでほしい。

定義の問題」とは要するに「何をもって〇〇を定義するのか」という事だ。

鉛筆を例にとろう。鉛筆を鉛筆として認識するのは容易い。しかし鉛筆を木材と芯の部分に分解したとしてもまだ鉛筆を鉛筆だと認識できるだろうか?
この木材にしても、芯にしても、もっと細かく、分子や原子、果ては素粒子まで分解可能である。しかし、これらの分子や原子、素粒子は存在するはずなのに、肉眼で観察する事ができない。我々は分子、原子、素粒子を見てるのではなくそれらが繋がっている様を見ているのだ。
また便宜上は分割されているがよく見ると不可分なものを多い。
魚を例にとってみよう。「本物の生きて泳いでる魚」は水の中でしか存在し得ない。もちろん水から揚げる事は可能だが、そうなってしまっては泳いでる魚とは言えないだろう。つまり「泳ぎ回る生きた魚」を定義する時には「水」の存在が不可欠なのである。「水」無くして「泳ぎ回る魚」は存在し得ない。これは車についても当てはまるだろう。車を購入、あるいはレンタルする時に乗り心地を気にする方もいるだろう。だが、果たして車の乗り心地は車の性能だけに左右されるだろうか? 無論そんな事はない。路面の状態や天候にも左右される。つまり、「泳ぎ回る魚」にしろ「車の乗り心地」にしろ、「魚」「車」だけで定義されるのではなく、その周りの環境との繋がり方で定義されるのだ。ということは、「私」を定義する時「世界」の存在は不可欠で在り、厳密にいうなら「私と世界は不可分」ということである。それはそうだろう。我々は地面がなければ、重力がなければ立つことはできない。空気がなければ呼吸もできないし、食べ物、飲み物がなければ生きることもできないのだ。ただ、これについて書くと後何万字も書かないといけないので今回は割愛させていただく。
仏陀はそうした目に見えない繋がりのことを「縁起」と説いた。つまり鉛筆にしろリンゴにしろ上記の藤の花にしろ、「縁起」に名をつけているだけで、それその物を指している訳ではないのである。また「縁起」は世界が誕生してから今までに渡って複雑で精緻なタペストリーのように絡み合っている。そしてこの「縁起につけられた名」は過去のものであり、必ずしも「今この瞬間に合致する」とは限らない。

故に「認識できる物は非実在」であり「全ては今この瞬間にしか存在しない」のだ。

さて、ここまで読んでいただいた方の中には、「認識できるものが非実在ならば、我々が認識している世界は一体なんなんだ」と思われるだろう。
話を少し巻き戻そう、我々はまず五感によって情報を集め、言葉によって世界を分割し、それにより世界を認識、理解可能なものにしている。しかしこの五感すらも完全なものではない。例えば可視光線1つとっても、電磁スペクトラムの中ではごくごく一部である。
また人間の可聴域は狭いとは言わないが、それでも1秒に20回から2万回程度の間に限定される。低周波や高周波を知覚はできない。このように、まずインプットの段階で、我々は世界を取捨選択している。どれだけ頑張っても我々は世界の一側面しか知覚する事が出来ない。さらにそれだけではなく、それらの「知覚できない何か」は我々の知らないうちに私に何らかの影響を及ぼしているのかもしれないのだ。紫外線や放射性物質がわかりやすい例だろう。
その次の解釈のプロセスでは上記の通りだ。取捨選択された世界を言葉を使って、我々が理解できるようにさらに細かく分割している。しかしその言葉とは我々が今習得したものではなく、我々が過去の体験より体得したものに過ぎない。つまり、我々は世界を通して「我々の過去を覗き込んでいる」のだ。

ニーチェはこれを指して「事実などない、解釈のみが存在する」といった。まさに「お前がそう思うならそうなんだろ。お前の中ではな」である。
しかし、そうなると、「我々は縁起を通して我々の過去を見ているだけなら、我々は何もわからない」のではないかと思う方もいるだろう。確かにその通りかもしれない。ただそれの何が問題なのだろう?
わからないものをわかるようにする為に、文明、そして科学は進歩してきた。それを否定する気は毛頭ない、今後も文明は発展してゆき、それに伴い今はわからない事も少しずつ解明されていくのだろう。
だがその一方で、わからない物をわからないままにしておくという態度をとってもいいのではないのだろうか? 元々「体験する私」は「体験することしかできず、言葉を持たない」のだ。それはすなわち、「今を生きるということは解釈、そして言葉を手放す」ということでもある。解釈と言葉を握りしめていては今を体験する事はできない。我々は常にどちらかを選ばなければならないのだ。もし理解したいのであれば今度は自分の考えと意志で世界を分割していけばいい。状況に応じて必要な方を選べばいいのではないだろうか。


つまり、全ては「今、この瞬間、ここにある」のだ。



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