「貧困」は「自己責任」か否か


少し前にこのようなツイッターが物議を醸した。

さらに別の方がアンケートを実施したところ「自己責任派」が51%「自己責任でない派」が49%という、およそ半々の結果となった。

この手の議論は以前からあったように思うが、思うに最大の鍵は様々な困窮状態が「貧困」という言葉で一括りにされている事だと思う。

鈴木大介氏による著作「最貧困女子」によると、貧困にはいくつかの原因があり、その原因として低所得、そして「3つの無縁」、すなわち「家族の無縁」、「地域の無縁」、「制度の無縁」 そして「3つの障害」すなわち「精神障害」、「知的障害」、「発達障害」が加わるそうだ。

「家族の無縁」とは、支援してくれる、家族、親戚がいない。

「地域の無縁」とは、支援、助力してくれる友人等がいない。

「制度の無縁」は生活保護の様な社会保障制度の不整備、認知度の低さ

のことを指し、

「精神障害」、例えばうつ病、統合失調症は定職につくことを難しくし、

「発達障害」はADHDやアスペルガー症候群のような、「一般的に理解され難い個性」は時として「支援に対する斥力」になり、

「知的障害」は療育手帳取得に至らない様な軽度の物はやはり定職についたり支援者を獲得する妨げになり得る。

と鈴木氏はまとめている。これをふまえて考えると、

「家族の無縁」→孤児や家族が既に亡くなっている、あるいは家族と連絡が取れない or 取りたくない以外は何とかして家族と連絡を取る。

「地域の無縁」→いわゆる「ぼっち」。ただSNS等が普及した世の中では自分から動くことができれば対策は可能。

「制度の無縁」→ググれ、もしくは役所に行くなり専門家のところに行け。

とある程度、対策が思い浮かぶし、ある程度までは自己責任だと思うのだが、たとえば「孤児」、「現行の社会保障制度の保証外での困窮」等、自分で選択できない、「困窮状態」も存在する。

また「精神障害」、「発達障害」、「知的障害」も、ある程度は投薬やカウンセリング、通院で対処できるかもしれないが、これも「自分で選択できない障害」があり、一括りに「自己責任」とするのは難しい。



「公正世界仮説」という物がある。

Wikiによると「この世界は人間の行いに対して公正な結果が返ってくる公正世界である、と考える認知バイアス、もしくは仮説である。「公正世界」であるこの世界においては、全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。」

説明すると長くなるので、詳細はWikipedia、もしくはこちらのサイトを読んでほしい。

個人的な感想だがWikiより下のサイトの方がわかりやすいと思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E4%BB%AE%E8%AA%AC



で、当初の質問だが、これは『公正世界仮説が正しい』という前提で考えると「回答者の考え方、望む世界の在り方」で変わってくると思う。

つまり「頑張れば報われる、稼げる、貧困から脱出できる」と考える人は「貧困を自己責任」だと判断するだろう。しかしそう考えない方がいることも容易に想像がつく。

ちなみに私も「自己責任派」だ。

しかし私の考え方は「貧困は自己責任」とは少し違い「『私』が『私』の人生において貧困で苦しむのは『私』の責任だ」という意味であり、他者にそれを当てはめる気はない。

他人にあてはめるとするならば「その人が持って生まれた物が原因での貧困ならば自己責任ではない」し「その人の選択が原因での貧困ならば自己責任」だと思う。




しかし、「誰」の責任かが本当に大事なのであろうか?

私はそうは思わない。

その貧困が「自己責任」であろうと「社会責任」であろうと、対処をし、より良い明日に繋げることは「自分」にしかできない。

ならば「誰の責任」かを追求するより「どうやって改善するか」を考えた方がよっぽど生産的だと思う。



これより下記は文章はなく出典のみの掲載となっています。

面白かったという方は、ぜひ応援よろしくお願いいたします。いつもありがとうございます。

続きをみるには

残り 135字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?