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クラシック音楽とコミットメント

クラシック音楽ははっきり言って敷居が高い。それは聞き手が意識的に聞く姿勢を作らなければいけないからだ。コンテンツに対する観客のコミットメントが必要である。長編小説もコミットメントを要求する。その反対にあるのはYouTubeやツイッターといったものだ。コミット度合いが高い分、それを乗り越えるものに連帯感が生じ、より聞き手や読み手にとって深く余韻が残る。クラシック音楽は音であり、その場で消えてしまう分、後で読み返せる小説よりも個人的にはコミットメント度合いが高いと思う。ある意味、クラオタおじさんが若い人にマウンティングするのも納得だ。彼らは何度もコミットしてきたのだ。

世間の流れをみると、コンテンツへのコミット度合いはどんどん低くなりつつある。長いものから短いもの、わかりにくいものよりわかりやすいもの、敷居が高いものより低いもの。コミットメントが必要ないのでより気軽に参加し、より気軽に離脱する。聞き手の集中が極限に高まった状態、いわゆるゾーンは生じにくい。


石川さんのピアノを聴いている時、私は明らかにゾーンに入っていた。特に、ラストのデュカのピアノソナタは45分以上あり、それを伝えられた時「大丈夫かな……」と正直思った。途中で飽きたらはしないかと。しかし、その圧倒的な展開に引き込まれ、途中で体をこっそり動かして音楽に乗り(逆にこのエネルギーを目の当たりにしてじっと聞いてられるか!?)、クライマックスでは「え、もう終わっちゃうの?そんなにたったの?」という感じだった。体感時間15分くらいだった。明らかに興奮していた。

ピアノはその表現の幅が1つの楽器に限定されている分、他の映像や音楽といったコンテンツに比べると変化の度合いは少ない。だからこそ音の流れや強弱、リズムの違いに聞き手は鋭敏になる。音に集中する。ピアノ以外の環境音、譜めくりの音、ピアノのペダルを踏む音。空間に集中する。演奏者の動き、光と陰、他の観客の動作。ジョン・ケージが「4分33秒」を残したのも納得だ。聞き手が集中していると、あらゆる音が音楽になる。

演奏を聴きながら、これは韻文詩と似ているな、と思った。表現の幅を意図的に制限することで、読み手のコミットメントが増し、感覚が鋭敏になる。自ら作品の世界へと飛び込む。その状態で感情をぶつけられたら、誰だってハイになる。


クラシックがほかのコンテンツと異なる点は、楽譜と演奏家、そして観客という3者の構造がある点だ。この構造があることで、演者によっての違いといった楽しみも生まれてくる。この差異は細かい分、また敷居が高くなる。しかし、演者の違いまでも楽しめたら、それは他にはないコミットメントであり、コンテンツは観客を捉えて離さないだろう。

いかに観客をコンテンツへコミットさせるか。これは非常に難しい課題である。いちおうYouTuberを名乗っている以上、頭を悩ませる問題である。YouTubeはコミットメントの低いコンテンツである。盛り上がりを最初に持って来たり、話を途切れさせないといった工夫をこらして、なんとか視聴者をコミットさせようとする。そうやって広く聴衆を獲得する必要がある一方で、逆に敷居の高いコンテンツを用意し、コミットメントした観客を手厚くもてなす試みも面白いなと感じる。今回のピアノリサイタルも、仮にYouTubeだったらここまでのコミットメントは生まれなかった。たぶん途中で演奏を聴くのをやめていた。これはオフラインの、リアルの強みである。リアルな身体によってコンテンツにアクセスすることの体験はいまのところネットではできない。(だからこそVRをはじめとした新しいコンテンツに興味もわくのだが。)


ここまでコミットメントしてくれた読者のみなさま、本当にありがとうございます。もしよければ石川さんにインタビューした動画をご覧ください。それでは。


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