見出し画像

78 リアルアカウント名

仕事のお客さんで、僕のことを下の名前で呼んでくれる人がいるんだけど、僕はそれが嬉しい。お客さんによっては上の名前で呼ぶ人がいる。出会い方に寄るので、呼び方が両方に散らばるのは仕方ないこととして、僕自身の感覚的に、上の名前の時と下の名前の時ではやはり違う。人格というか、僕自身の在り方が。

下の名前で呼ばれると親しみを感じるからとか、そういう理由ではなくて(そういう嬉しさもちろんあるけど)、僕自身が普段「isao」という名前で存在している気がしているので、そう呼ばれた方が、なんというか、自分のありたい姿を呼んでもらえている気がするからだ。

どんな名前で自分の存在を認識しているかなんて意識することは普段ないけど、あえて考えてみるなら、電車に乗っている今、僕のリアルアカウント名は「isao」だ。いさおでもイサオでもない。

SNSが普及しはじめた頃、最初はみんな1人につき1アカウントだったのが、今では複数アカウントを持って切り替えながら使うのが当たり前になっている。僕もTwitterだけでも4,5個あるし、それは別に隠している訳でも違う存在を名乗っている訳でもないのだけど、いつからか「分けなければ整理がつかないこと」が多くなってそうした。

これまでのリアルを含む活動の場合、見た目が一緒なので分けるのは難しかった。それでも、肩書きによって扱いを分けると自分の頭がスッキリすることに気づいて積極的に分けるようになったのはもう3年くらい前の話。

それ以来、気持ち的にもだいぶ楽になったけど、やはりリアルで分けるのには限界がある。Twitterみたいに切り替えた瞬間に、見えるもの(タイムライン)や人間関係(フォロワー)が綺麗に切り替わる訳ではない。リアルではすべてが混ぜこぜ。

ネット上で何事も済ますことが多くなった今、このアカウント切り替えの感覚はこれからもっと有効になるんじゃなかろうか。属する社会をつどつど切り替えながら生きる感じ(そう考えると本人認証が必要なSNSって……と考えてしまう。ネットショップとか必要不可欠なジャンルはあるかもしれないけど)。

といっても、リアルを完全になくすわけにはいかないので、どういう自分でいたいかは、単純に自分でコントロールというか、いたい自分でなるべくいられるように企てる必要がある。と、平野啓一郎さんの「分人」という言葉をまた思い出す。(私とは何か「個人」から「分人」へ 平野啓一郎)

本題に戻って、何が言いたかったかをまとめると、「ありたい自分」を知るヒントとして、「表記を含めた呼ばれ方」が重要なんじゃないかということ。現実での呼び名という意味でのリアルアカウント名が。

気に入ってくださいましたら、ぜひお気持ちを!