神宮125社めぐり(タブラ・ラサと生命の羅針盤)

上野 哲矢 (Hiroya Ueno)
 
神宮125社めぐりをめぐる前夜

パンドラの箱
 
わたしたちの国はAIやIoE、それらを組み合わせて膨大で複雑なビッグデータを収集、分析と解析、正確な判断によって社会問題を解決する、いわゆるスマート社会の実現に向けて走り出しています(あるいはシンギュラリティに向かって)。
 もちろん、デジタル技術が進展して人々の暮らしが豊かで便利なものになり、ハードルの高い課題を速やかに、本質的にクリアできるテクノロジーを否定するものではありません。けれど、市場競争の激化、貧富の差の拡大や自国の失業者の増加、産業が空洞化し衰退する可能性。文化や価値観の違いによる対立や、技術や優秀な人材の流出の懸念。さらに、資本主義のグローバリゼーションによって、新型コロナウイルスの世界的な流行となったパンデミック。気候変動による地球規模の異常気象、自然災害の発生の顕在化が世界を揺るがしているのも事実です。
 2023年7月28日、グテーレス国連事務総長は、「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と警鐘を鳴らしました。経済成長至上主義という信仰から立ち戻れないわたしたちは、もうすでにパンドラの箱を開けてしまったのでしょうか。
 
 首都圏で暮らすわたしにとって、このような趨勢は身近なものです。一方で心と身体がちぐはぐに捩れていくような感覚や、大切なものを忘れて(或いは、本当は間違っていると気づきながら)アクセルを踏むことしかできない病に感染しているのではないか、という不安に襲われます。
 解剖学者の養老孟司さんは、今の社会を脳化社会と表現します。『なんでも意識的にやろうとする傾向がとにかく強い』と。『日本人が幸せになるためには、人工的な都市から離れ、自然の中で「感覚」を取り戻していくことが重要』と説きます。養老先生のこの箴言はとても重要だと考えます。わたしたちが忘れてならないのは、人は自然であること。人が自然であるということは、生命(いのち)を宿しているということです。「ああ、生きてる」と思える「感覚」が生きる喜びであり、幸せなのだと思います。

センス オブ ワンダーの旅
 今回のワーケーションのお話をいただいたとき、即座に頭に浮かんだのは、予々思い描いていた「神宮125社をめぐる旅」をしたい!ということでした。お伊勢さんには、ご縁をいただいて二見浦や外宮・内宮に幾度か訪れた経験があります。その度に、言葉で言い表せない親しみや安堵、同時に畏怖の念を抱いてきました。とりわけ「ご正宮」の前で手を合わせる折、御幌(みとばり)が音もなく悠然と風にゆれる光景は、神殿の奥に鎮座する太陽神の息遣いが感じられて、我々には認識できない歌声が流れているかのようです。
 西行法師の「なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」と詠んだ歌に、想いを重ねて来ました。

 神宮(伊勢神宮)は、内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)の正宮と別宮、さらに摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)・所管社(しょかんしゃ)合わせて125社のお社の総称であり、伊勢市を中心に4市2郡にまたがる神宮125社は、2千年もの悠久の歴史を有しています。一帯の凛とした清々しい空気の中で、千古の杉、楠、榊などが、力強く天に向かって伸びています。生命力に溢れる森は、多様な生物たちが往来し、四季折々の豊かな表情を見せてくれます。まるで地上の天の川銀河のようです。
 ここは海・山・あいだ(川や平野)の恵みの王国です。太陽女神、天照大神の聖所が建つ神話の舞台です。この地をめぐり、忘れかけた『感覚』を呼び覚ます旅に出たいと思ったのです。

 そう、センス オブ ワンダーの旅へ。

境内の木々。満天の星空のように広がる生命のエコー。

西行と伊勢
 伊勢に対する最初の関心は、以前読んだ白洲正子の著書「西行」が呼び水となりました。西行は23歳の若さで突如出家。全国を旅する修行僧となって自然にわけいり、花鳥風月を愛で、殊に花(桜)の歌をたくさん詠んだ風雅な歌人として知られています。出家するまでの西行は、鳥羽院の(弓道の道はもとより、眉目秀麗で、詩歌管弦に堪能であることを条件とした)北面武士でした。文武に長け、芸事に秀で、その上イケメンで非常に女性にモテる、華やかで富裕な若武者であったといいます。出家に至る動機は諸説ありますが、白洲は『彼は世をはかなんだのでも、世間から逃れようとしたのでもない。ひたすら荒い魂を鎮めるために出家したのであって、西行に一図な信仰心がみとめられないのはそのためである。(中略) 天性の歌人の資質は、彼の心を和らげるとともに、大和言葉の美しさによって、「たでたでしい」野生は矯正され、次第に飼い馴らされて行ったであろう。明恵上人の伝記の中にある西行の、「我れ此の歌によりて法を得ることあり」という詞(ことば)は、そういうことを物語っているのだと思う』と考察しました。歌が西行を救い、その歌に宿った情感や霊性は、時空を超えて今もわたしたちの魂を震わせます。

 伊勢は、そんな西行が出家後まもなくに訪れ、晩年この地に庵を結ぶまで、何度も訪れ親しんだといわれています。おそらく大神宮周辺にも住み、「西行谷」と呼ばれる遺跡が数ヶ所見出されるように、多くの神官たちとの交流もあったようです。晩年の7、8年の長きにわたって二見浦と近くの菩提山神宮寺に草庵をかまえた西行。僧侶であり、歌人であった彼が愛した伊勢には、どんな魅力があるのだろう。想いはつのるばかりでした。
 あいにく、世界中を襲ったパンデミックによって、決行できたのはワーケーションの締め切り迫る2023年3月の頭になってしまいました。

 その道程を以下に簡単に記しておきます。

二見浦の朝の海。禊ぎの聖地。

紀行
3月3日 14時05分 伊勢市駅到着

3月4日 伊勢駅から二見浦駅へ
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 旅館「岩戸館」到着。親切なお女将さんに「御塩殿(みしおでん)神社にお連
れいただく
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 採鹹(さいかん)所である御塩浜と、大御神にお供えする野菜や果物を育てる
 神宮御園、神宮神田へ
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 「朝熊(あさくま)神社」と「朝熊御前(あさくまみまえ)神社」に参拝
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 「鏡宮(かがみのみや)神社」
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 「堅田(かただ)神社」
 
 
3月5日 午前10時過ぎ御塩殿神社に到着、「御塩焼固」を見学
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 「江(え)神社」へ
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 「神前(こうざき)神社」「許母利(こもり)神社」「荒前(あらさき)神
 社」
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 「蘇民将来子孫家門(そみんしょうらいしそんけもん)」の伝説が残る「松下
 社」を参拝
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 「粟皇子(あわみこ)神社」
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 「赤崎(あかさき)神社」 
 
 
3月6日 早朝6時に「岩戸館」前に集合。女将さんの丁寧な解説を受けながら「二見興玉(ふたみおきたま)神社」を参拝。
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 「伊雑宮(いざわのみや)」 その後、御神田(おみた)と倭姫命の遺跡、
 志摩の三代石神のひとつ「上之郷の石神」参拝
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 「佐美長(さみなが)神社」「佐美長御前(さみながみまえ)神社四社」
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  恵利原の逢坂山の道中腹にある「天の岩戸」参拝、その後、伊勢市内へ
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 大土御祖(おおつちみおや)神社」・「宇治乃奴鬼(うじのぬき)神社」同じ
 敷地右奥に「国津御祖(くにつみおや)神社」・「葦立弖(あしだて)神社」
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 「宇治山田(うじようだ)神社」・「那自賣(なじめ)神社」
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 「加努弥(かぬみ)神社」
 
 
3月7日 10時チェックアウト
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 女将さんに送ってもらい伊勢市へ、レンタカーを借りる
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 滝原へ「多岐原(たきはら)神社」
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 「瀧原宮(たきはらのみや)」「瀧原竝宮(たきはらならびのみや)」「若宮
 神社」「長由介(ながゆけ)神社」・「川島神社」
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 宮川へ「久具都比賣(くぐつひめ)神社」
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 「園相(そない)神社」
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 「川原(かわら)神社」
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 外城田へ「鴨神社」
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 「津布良(つぶら)神社」
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 「田乃家(たのえ)神社」・「田乃家御前(たのえみまえ)神社」
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 「蚊野(かの)」神社」・「蚊野御前(かのみまえ)神社」
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 「棒原(すぎはら)神社」
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 「御船(みふね)神社」・「牟弥乃(むみの)神社」
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 「朽羅(くちら)神社」
 
 
3月8日 機殿・斎宮へ「神麻続機殿(かんおみはたどの)神社」末社8社
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 「神服織機殿(かんはとりはたどの)神社」末社8社
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 田丸へ「奈良波良(ならはら)神社」
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 「鴨下(かもしも)神社」
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 「坂手国生(さかてくなり)神社」
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 「狭田国生(さたくなり)神社」
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 「小社(おごそ)神社」「奈良波良(ならはら)神社」
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 大湊・神社へ「河原淵(かわはらぶち)神社」
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 「河原(かわら)神社」・「毛理(もり)神社」
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 「志宝屋(しおや)神社」
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 「御食(みけ)神社」
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 小俣へ「宇須乃野(うすのの)神社」・「県(あがた)神社」
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 「草奈伎(くさなぎ)神社」・「大間国生(おおまくなり)神社」
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 「清野井庭(きよのいば)神社」
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 「志等美(しとみ)神社」・「大河内(おおこうち)神社」・「打懸(うちか
 け)神社」
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 「小俣(おばた)神社」
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 「湯田(ゆた)神社」
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 五十鈴川へ「葭原(あしはら)神社」
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 「月読宮(つきよみのみや)」
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 「月讀荒御魂宮(つきよみのあらみたまのみや)」
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 「伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)」
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 「伊佐奈彌宮(いざなみのみや)」
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 「倭姫宮(やまとひめのみや)」
 
 
3月9日 外宮へ 伊勢駅横のレンタ電動バイクを借りて外宮へ
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 「豊受大神宮」
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 「多賀宮(たかのみや)」
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 「土宮(つちのみや)」
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 「風宮(かぜのみや)」
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 「下御井(しものみいの)神社」
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 「四至(みやのめぐりのかみ)神」
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 「御酒殿神(みさかどののかみ)」
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 「御厩(みうまや)」で神馬に会う。名前は笑智号(えみともごう)
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 「度会国御(わたらいくにみ)神社」
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 「大津神社」
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 「上御井(かみのみいの)神社」
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 「度会大国玉比賣(わたらいおおくにたまひめ)神社」
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 「伊我理(いがり)神社」・「井中神社」
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 「山末(やまずえ)神社」
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 「田上大水(たのえおおみず)神社」・「田上大水御前(たのえおおみずみま
 え)神社」
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 「月夜見宮(つきよみのみや)」
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 「高河原(たかがわら)神社」
 
 
3月10日 内宮へ
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 「瀧祭神」
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 「風日祈宮(かぜひのみのみや)」
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 「皇大神宮」
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 「興玉神(おきたまのかみ)」
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 「宮比神(みやびのかみ)」
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 「屋乃波比伎神(やのはひきのかみ)」
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 「御稲御倉神(みしねのみくらのかみ)」
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 「荒祭宮(あらまつりのみや)」
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 「由貴御倉神(ゆきのみくらのかみ)」
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 「御酒殿神(みさかどののかみ)」
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 「四至神(みやのめぐりのかみ)」
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 「大山祇(おおやまつみ)神社」
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 「子安(こやす)神社」
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 「饗土橋姫(あえどはしひめ)神社」
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 「津長(つなが)神社」・「新川(にいかわ)神社」・「石井(いわい)神
 社」
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 「大水(おおみず)神社」・「川相(かわあい)神社」・「熊淵(くまふち)
 神社」
 
 
3月11日 バスに乗って伊勢志摩スカイラインで朝熊山へ
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 「朝熊岳金剛證寺(あさまだけこんごうしょうじ)」
 
※「朝熊岳金剛證寺」は「伊勢神宮の奥之院」とも呼ばれ、「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭の一節にも唄われるお寺です。「神宮125社をめぐる旅」の結びとして参拝。

エレガントな神宮
 「岩戸館」の女将さんにお連れいただき、二見の「御塩殿神社」を参拝しました。幸いなことに、前日(3月3日)から「御塩焼固」という御塩を焼き固める祭事が行われていました。女将さんのはからいで、神事をされている神宮所管社御塩殿神社清掃員の里田さんをご紹介いただきました。里田さんからは、大御神のお供えとして捧げられる塩についてお話を伺えたばかりか、翌朝行う「御塩焼固」の見学に誘ってくれました。
 「御塩焼固」とは予め用意した三角錐の土器に荒塩を木拍子で込め、棒で堅く詰込み、竈の中で馬蹄型に粗塩面が直接火にあたらないようにして御火を鑚(き)り、焼固をすることです。3月と10月の都合2回(計10日間)行われます。出来上がった御塩が米と水とともに、毎朝大御神にお供えされるのです。
 御塩は近くの五十鈴川河口にある御塩田で塩水を取り込み、7月末の1週間に及ぶ採鹹(かん)作業を経て、採取した鹹水を御塩殿神社にある御塩汲入所に運んで貯水します。8月上旬、隣の御塩焼所で「くど」の上に鉄の平釜を使って荒塩が作られ、俵詰めされて御塩倉に納められます。御塩の供進は垂仁天皇の時代、皇大神宮が鎮座された時から始まったと伝えられています。垂仁天皇の時代のころというのは、紀元前50年ごろが起源となるので、古(いにしえ)から続く祭礼を今に見学できたことは、たいへん有難い経験となりました。

 御塩殿神社は小さな森に護られ、裏側に海を拝して建っています。御塩殿神社を含む境内4つの建物で構成された聖域の美しい洗練は、内宮と外宮だけしか参拝したことのないわたしに、驚きと大きな気づきを与えてくれました。
 しかし、御塩殿神社の洗練とは、この神社だけが特別に精選されたお社であることを証明するものではありません。むしろ正宮、別宮は言うに及ばず、摂社、末社、所管社に至る神宮125社全てに貫通するエスプリだったのです。ドイツの建築家ブルーノ·タウトをして「伊勢は世界建築の王座である」と言わしめた日本古来の建築様式「唯一神明造」の社殿はいうまでもなく、御塩汲入所や御塩焼所の「天地根元造り」と呼ばれる、縄文時代の竪穴住居にも似た一見簡素な建物においても、細部への繊細な造作の洗練は行き渡り、エスプリに裏打ちされた様式美と品格を纏っているのです。
 この洗練は建築物は言うに及ばず、御塩造りの工程に使われる全ての道具にも、用の美として貫かれています。神社境内の森や参道を含む全てに張り巡らされた結界の中で、秩序と霊性が一体となり、理屈を超えた美の調和が表象しているのです。例えるなら、神宮という宇宙におけるアートマンとブラフマンの関係のようです。エレガントなメビウスの循環が、部分であり全体として生成しているのが神宮という銀河だったのです。

参道の奥に御塩殿神社。美しい秩序で張り巡らされた神の惑星。
里田さんによる御塩焼固の様子。建物の造作から道具、所作に至るまで洗練されて美しい。

太古へのタイムトラベル
 今回の旅は、二見→鳥羽・磯部→五十鈴川→滝原→宮川→ 外城田→ 機殿・斎宮→田丸→大湊・神社→小俣→外宮→内宮へとめぐり、正宮、別宮、摂社、末社、所管社という神宮125社をめぐるフィールドワークによって初めて感得できる、現代から太古へと滑り込む壮大なタイムトラベルでした。内宮と外宮から離れた場所に建つお社の中でも、特に印象深かったお社や周辺の環境について、簡単に記述しておきます。

五十鈴川の朝熊神社・朝熊御前神社と鏡宮神社
 「朝熊神社」・「朝熊御前神社」と「鏡宮神社」は五十鈴川河口側に近接して建っていました。河川から往来する、大小数種類の沢蟹が、境内の内外で活発に活動しています。夕刻の穏やかでそこはかとなく行き交う風の流れ、夜の帳が少しずつ下りてゆく中、夕陽を浴びながら、小魚を求めて移動する鷺の動きによって生まれる茜色の波紋のドレープの陰影や、たゆたゆと揺れながら静かに暗闇に向かう情景が胸に迫りました。

 平安時代、西行はこのような出会いに「心なき 身にもあはれは しられけり鴫たつ沢の 秋の夕暮」と詠んだのではないか。私はタイムスリップして、西行の心情に触れたような気がしました。
※この歌は西行が大磯辺りを旅したときに詠まれたものとされています。

里田さんによる御塩焼固の様子。建物の造作から道具、所作に至るまで洗練されて美しい。

二見の粟皇子神社
 お正月飾りやしめ飾りに書かれている「蘇民将来子孫家門(そみんしょうらいしそんけもん)」、「蘇民将来子孫也(そみんしょうらいしそんのけもん)」の伝説が残る「松下社」(御祭神は、須佐之男命)を参拝。鳥羽方面に向かう「旅荘 海の蝶」を目指し、旅荘下に建つ「粟皇子神社」を訪ねました。御祭神は須佐乃乎命御玉道主命。
 旅荘の高台から降りていくと、鴨の群れがわたしに気づいて飛び立った後、悠久の静寂が、ゆるやかに湖畔のような池の浦の海岸に訪れました。暴れ神スサノオの荒ぶるこころを癒した鎮魂の証のように。静けさを取り戻した穏やかな海岸一帯の景色は、透明で清らかな格調高い描線と、端正で優美な色彩で描かれた大和絵の情感そのものでした。

粟皇子神社の参道から池の浦の海岸を望む。ここには、今も太古の時間が流れている。

鳥羽の赤崎神社
 赤崎神社の参道に入り、鳥居を見上げた先の山裾に、鹿の親子が歩いている姿を発見しました。神社で動物に会うのは幸甚と言われます。神の使いが旅先案内人となって現れたようです。まるで絵巻物に描かれる世界に紛れ込んだような心地になりました。無垢な古代空間に包まれて、こころが浄化されていくようでした。

石段を上がった右に赤崎神社。奥の山の裾野に鹿の親子に遭遇。

滝原の多岐原神社と瀧原宮、瀧原竝宮、若宮神社、長由介神社・川島神社
 子どものころに読み聞かされた昔話。その舞台を思い出すような美しい里山の地に、「多岐原神社」はありました。辺りはきれいに手入れされた畑が広がり、果実の木々の中に混じって、美しい梅が咲いていました。時空を超えたもうひとつの異界が今も存在していたのです。ここは三瀬坂峠(みせざかとうげ)を越えて瀧原宮へ抜ける熊野古道の伊勢路の一角でもあります。

 「瀧原宮」は、「天照大神遙宮(とおのみや)」という別名で呼ばれることもあるように、倭姫命によって美しい「大河之瀧原之国(おおかわのたきはらのくに)」といわれた国に、大御神がかつて鎮座された宮殿です。今は、別宮として天照大御神を祀っています。第一鳥居をくぐり、参道は約600mもあって、奥深くまで森が広がっています。樹齢数百年を数える杉の木立の中は、音のない世界に入り込んだような静けさです。清澄な空気に圧倒されます。神聖な空気を胸一杯に吸い込むと、全身が多幸感に満たされました。
 中まで進むと、内宮同様、御手洗場があります。森の中の頓登(とんど)川の渓流に光が差し、辺りは輝きに満ちていました。「宿衛屋」を越えてもう少し奥に進むと「瀧原宮」と「瀧原竝宮」、その奥に「若宮神社」、「長由介神社」・「川島神社」が現れました。
 神々は歌い、大地や、まっすぐに伸びた巨木たち、鳥や虫たちが、「余計なものを捨て、幽玄の波動に同期しなさい」と諭してくれます。

左から瀧原竝宮、次に瀧原宮。神々の歌が聞こえてくるよう。

宮川の久具都比賣神社、川原神社、外城田の朽羅神」、機殿・斎宮の神麻続機殿神社、神服織機殿神社、田丸の小社神社、奈良波良神社
 滝原から伊勢市方向を目指して戻りながら、宮川、外城田へ。平野が広がるのどかな田園地帯です。初夏には、きっと美しい田園風景に衣替えしているはずです。そのころ再訪すれば、薫風に躍動する生命のダンスに出会えるのだはないか。そんな想像をかき立てられる地でした。
 田園地帯の長く真っ直ぐに伸びた農道の先に、自然の景色と溶け込むように、こんもりとした鎮守の森が現れます。宮川の「久具都比賣神社」や「川原神社」、外城田の「朽羅神社」。機殿・斎宮の双子のように鎮座する「神麻続機殿神社」や「神服織機殿神社」、田丸の「小社神社」、「奈良波良神社」などがそうです。一帯を守護する水の神様や豊穣の神様たちの微笑みを感じさせてくれるところです。
  訪れた3月の初頭は、運よく天候にも恵まれ、温かい春の陽射しが、巡礼を助けてくれました。朝はまだ冬の名残も感じられる気温の中、5mを超える椿の外壁が、鎮守の森をやさしく包んでいました。ところどころに紅色の椿の花が咲いていて、美しい鎮護の要塞は、内外(うちそと)で合唱する野鳥たちや、森の中で暮らす小さな生命たちを大切に抱擁していました。

農道から見た奈良波良神社の森。まるで多様で複雑な生命体。


神宮125社めぐりをめぐる思考

聖地と知性
 前章で、神宮125社めぐりは、太古へのタイムトラベルと述べましたが、この旅は同時に人類の「知性」の出現に遡る旅でもありました。ちょっと大げさですが。

 そのお話をする前に、少し遠回りして人類の誕生の歴史を振り返ります。ご存知のように、人類の進化の道は、他の生物と同じく1本ではありませんでした。自然科学者・生物学者 のチャールズ・ダーウィンの「進化の木」が示すように、いくつもの枝別れをしながら、さまざまな形態的特徴をもつ人類(例えばアウストラロピティクス、北京原人、ネアンデルタール人など)が誕生してきました。
 700万年前、人類の祖先は直立二足歩行を使って、熱帯雨林から徐々に草原へと進出。50万年前には狩猟生活が始まったとされています。かつて肉食動物に捕食される存在だったわたしたちの祖先は、外的からの脅威を防ぎ、身を守るために助け合い、集団の規模を少しずつ大きくすることで社会力を育てていきました。自然淘汰を経て、最後に生き延びたのがホモ・サピエンスです。20万年前にアフリカで誕生し、世界中に分布したヒト属の、現存する唯一の人類です。日本人の祖先である縄文人もホモ・サピエンスの仲間です。ホモ・サピエンスとは、サピエンス=「知性をもった/知恵をもった」ホモ=「人類」ということを指します。 18世紀の植物学者C.リンネが「自然の体系」のなかで人類に与えた学名です。

 さて、わたしたちの祖先となるホモ・サピエンス(知性を持った人類)は、過酷で気の遠くなるような淘汰の波を乗り越え、進化していく中で、いかにして聖地にめぐり逢うのでしょう?
  思想家・人類学者の中沢新一さんの著書「アースダイバー 神社編」を紐解くと『聖地はこのサピエンス=知性が発動する、精神のきわめて深い場所にわき起こる感覚につながっている(中略)神社という日本の聖地には、人間の精神の秘密にかかわる多くの謎が、ほとんど手つかずのままに残されている(中略)人間にとっての聖地はサピエンス=知性の本質と深い関係をもっているにちがいない。サピエンスが人類の心に出現したとき、時を移さず、人間の聖地が出現している』と書いています。
※記述の聖地とは、伊勢神宮も含めた日本全体に分布する聖地と呼ばれる場所を指しています

 日本人の祖先のこころ(精神)に、知性が宿るのと並走するように出現した聖地。ゆえに聖地は、知性の本質に深く関係し、こころの深淵活動とつながる構造を持っている。けれど現代において、わたしたちはこのことを見過ごし、置き去りにしてきました。その結果が人類に生命の憂鬱を生み出したのだと思います。ですから聖地を訪れることは、物見遊山などではなく(そうであってもいいのですが)、積極的にこころの秘密に迫り、多くの謎を垣間見るための知性のフィールドワークと捉えることができそうです。本来の信仰とは、そのような行為を指すのではないでしょうか。このような信仰(知性のフィールドワーク)を「明るい信仰」と呼びたいと思います。

 10万年ほど前の旧石器時代前夜、ついに人類は深い洞窟を探し出し、その中に入って祭儀を始めます。場所も祭儀も特定の者以外は秘密にされて・・・。聖地の始まりです。このようにして世界各地に聖地は誕生していったのだそうです。

聖地と神話
 日本の場合はどうでしょう。
 古事記「天の岩戸」伝説。弟のスサノヲの乱暴に手を焼いたアマテラスが、天の石屋戸に隠れてしまうと、高天の原はすっかり暗くなって、闇夜の世界になってしまいます。そこで八百万の神様が集まり、オモイカネの知恵によって長鳴鳥を集め鳴かせ、八尺鏡を用意し、五百個の勾玉を連ねた玉飾りを作るなど、お祭りの準備を整えます。最後にアメのウズメが、樽の上に乗って神がかり乱舞します。それを観た八百万の神様たちは、大笑し、どよめきの大騒ぎとなります。アマテラスは、外のあまりの騒々しさに様子を見ようと天の石屋戸を開け、とうとう蔭に隠れていたタヂカラヲによって、アマテラスは引き出されることになります。こうして高天の原はすっかり明るさを取り戻します。再び世界に光が放たれ、太陽の復活を祝います。これが新嘗祭へとつながっていったといわれています。
 わたしは「天の岩戸」伝説に、聖地の夜明けを告げる装置がメタファーとして埋め込まれていると考えます。アマテラスが身を隠した石屋戸こそ、人類が探し出した深い洞窟であり、オモイカネ(知恵の神様)はサピエンスを。飾り物を施し、アメのウズメが舞うことは、祭儀を現しているのではないか。つまり「天の岩戸」伝説は、聖地誕生の物語でもあったのです。アメのウズメの舞が、巫女が踊る神楽の起源とされるのも頷けます。
 
 古事記は712年に生まれた日本最古の歴史書ですが、口伝によって語り継がれていた「神話」を太安万侶(おおのやすまろ)によって上・中・下の3巻に編纂されたものです。口伝とは、人から人へと口授による言葉の伝承です。つまり、古事記は712年に編纂されるずっと昔から伝えられてきた物語なのです。古事記がどのくらい前から口伝によって語り継がれてきたかは分かりませんが、人類が言葉を手に入れたのは7万~10万年前とされているので、「天の岩戸」伝説は、同時代に生まれた聖地と言葉という双子の記憶を、神話という口伝のゆりかごに乗せて、古事記編纂の時代まで運んでくれたと考えられます。

  世界各地に残る初期の神話の物語は、人間と動植物、精霊などの区別がなく、(それぞれの地域や文化によって特色が異なりますが)部族の移動や文化の伝播にともなってハイブリットされ、変貌とアップデートを重ねられてきたと考えられています。少なくとも1万年以上前の後期旧石器時代、大陸がまだ地続きであったころから、神話の交配は始まっていたらしい。日本の神話は、ギリシャ神話やアメリカ大陸の原住民の神話との類似が認められています。
 フランスの文化人類学者レヴィ=ストロースは、日本文化についての著書「月の裏側」の中で、古代エジプトの神話との親和性を強調し、紀元前3千年前に作られた物語が古事記の起源ではないかと推測しています。
 レヴィ=ストロースは、『神話は、人類最初の哲学』といいます。聖地と神話は、併せ鏡のごとく今もなお日本人のこころの深層と関わり、世界との矛盾を突きつけ、生の意味を問いかけるのです。ですから、こころ(精神)―知性ー聖地ー言葉ー神話は、つながり、交差しながら循環する構造をもった生き物といえるかもしれません。レヴィ=ストロースは『自然界の秩序と人間の思考の秩序は本質的に同じではないか』と論考しました。

天の岩戸。神話の顕現。

聖地と信仰
 紀元前8千年のころ、狩猟採集時代(上部旧石器から新石器時代の半ばまで)における、自然とひとつながりの循環生活から、中近東の一角で起こった農業革命によって、世界は成長と増殖の時代を迎えます。その結果、人口の増大によって都市が生まれ、狩猟採集時代の自然ー精霊ー人間へとつながる「そこはかとない信仰」から、人々を結集させるための、神々を象徴とする宗教が生まれました。やがてイスラム教、ユダヤ教、キリスト教、仏教などの世界宗教を産み落とします。
 一方、縄文人が日本列島にわたって来たのは、1万5千年ほど前とされていますが、この私たちの祖先は「組織的農業をおこなわない新石器人」として、狩猟採集をして生活していた珍しいタイプだったようです。そこに、2千数百年ほど前、倭人が北部九州にたどり着きます。倭人は、稲作の技術や青銅器の武器を携えていたにもかかわらず、先住民である縄文人との共生の道を選び、先住の縄文人と倭人の混血が進んで、日本人の原型が形成されていきました。同時に神道の土台が形成されていったのです。
 中沢さんは、『その神道の土台をなすものが、神道の「古層」であり、聖地の構造として、最下層には上部旧石器的な原初の宗教体験が埋め込まれている。』、『この原初の宗教体験を原宗教と呼び、その上に精霊の考えを有した前宗教、稲作文化によって豊穣な神々の世界を有した宗教の多層構造が内包されている』と説きます。

志摩の三大石神のひとつ「上之郷の石神」。
縄文時代に磐座(いわくら)は、聖地の中心として信仰されていた。

伊勢神宮の「宗教」の多層構造
 伊勢神宮は原宗教、前宗教、宗教の多層構造を内包する聖地であると、中沢新一さんの著書「アースダイバー 神社編」は教えてくれます。さらに、『内宮には天照大御神が祀られ、御神体は八咫鏡。天皇家にとってきわめて重要な神器だが、伊勢神宮の伝統にとっては、正殿床下にある「心の身柱(しんのみはしら)」に対する儀礼に、大きな重要性が与えられていた』というのです。以下は「心の身柱」に対する儀礼の具体的な考察です。少し長いですが、そのままを記述します。
 『この床下の土中に突き立てられた「心の身柱」の前で三節祭(十月の神嘗祭、六月と十二月の月次祭)が、深夜密かに執り行われる。古代から天皇は、自分の妹や姪を「斎王」として、神々への奉仕に一生を捧げるべき女性として、伊勢神宮に送り込んでいた。しかし、不思議なことに、伊勢神宮でもっとも重要な神祭である三節祭に、この斎王は参加せず、かわって土地の豪族から選ばれた少女が「斎女」として、この深夜の床下の秘儀を、一人で執り行うことが定められていた。(中略)大地の奥深くに潜んでいる神聖なエネルギーは、ふだんは頭だけを地上に出して、土器皿の呪力に抑えられている。 少女が柱に接近すると、その力はむくむくと立ち上がり、床下の密封された室の中で、少女からの奉仕を受ける。 陰陽の和合を果たしたエネルギーは、現実世界に向かって突き上がっていき、屋根の頂上から渦を描いて、外に向かって広がっていく。ここにあるのは、オーストラリア・アボリジニーの「虹の蛇」の思想と酷似した構造を持つ「力のあらわれ」をめぐる思想の、洗練を極めた表現にほかならない。 伊勢神宮を形成する精神地層の最深部は、広大な人間精神の古層にまっすぐつながっている。伊勢神宮は見かけによらず、おそろしく野性的な聖所なのである。それは大地の奥に隠されている聖なるエネルギーが、性的な誘いに応じて、現実世界のなかにダイナミックに顕現してくる様子を、抽象化してそのままに造形してみせている。心地下に埋められた柱をとおして昇ってきた力が、密封された箱状の室の中で転換を起こし、現実世界に力を放出される。その様子を抽象的にあらわしているのが、屋根に突き出た千木であろう。千木は交差させた二本の腕を、天に向かって突き上げている』

いのちの羅針盤
 エレガントな神殿の大地の深層には、ダイナミックで聖なるエネルギーが渦巻く、神道の古層(=原宗教)が広がっている。その上層に、伊勢の地に最初に移り住んだとされる磯部(いそべ)一族や、度会(わたらい)一族の、倭人(=弥生人)集団による前宗教、宗教が堆積する多層構造の霊性を、伊勢神宮は包蔵しているというのです。
 神宮の受容の強度と度量に驚愕するほかありません。ここに伊勢神宮が「日本人のこころのふるさと」と愛される、奥深いヒントがありそうです。では、これから「日本人のこころ」はいったいどこへ向かうのでしょう?
  冒頭で述べた、現在の経済成長至上主義という信仰やスマート社会神話は、こころの大地に降り注ぐ、恵みの雨や光となってくれるのでしょうか・・・?
 残念ながら、わたしはこの流れを、素直に受け入れる気になれないのです。今こそ少し立ち止まって目の前の趨勢から目を閉じ、タブラ・ラサからはじめたいと思うのです。人類の何万年にもおよぶ知性(サピエンス)の冒険を続けるために。そして、この星の声を聴く力を蘇生するために。
 そのためには、生命(いのち)の羅針盤をチューニングする必要があると思います。生命の羅針盤とは、わたしたちの身体と精神を統合して察知する感性、感覚、感度のことです。わたしという舟が、見えない洪水に流されていることを察知して、着岸すること。呼吸を整え、こびり付いた泥を洗い落とすことを焦眉の急と捉えられる感性が、生命の羅針盤が働いている証です。

 生命の羅針盤をチューニングするひとつの方法は、アートにふれることです。アートは大きな気づきをもたらしてくれ触媒のひとつだと思います。アーティストは、地球太古からの地響きと時代の潮流を体内に鯨飲し、反芻と沈思黙考されたエネルギーを放出する現代のシャーマンです。
 例えば「伊勢市クリエイター ズ・ワーケーション」に参加したメンバーが、再結集し、面白い試みを始動するプロジェクトを始めることは、意義深い試みとなるでしょう。さらには、新しい仲間を交え、異なる分野の方々と連携したアクションを起こすことが出来たなら、伊勢市に、新たな知性の地層が堆積する土壌が醸成されると思います(伊勢市クリエイター ズ・ワーケーション2.0 ?)。

 さて、もうひとつの方法は、自然に分け入り、聖地をめぐって野生の思考と霊性を呼び覚ます旅をすることです。人は自然の一部であることを体感するために、「神宮125社めぐり」という聖地めぐりは、初動の通過儀礼となってくれるはずです。自然や神宮の胎内に潜ることでしか、(聖地の深層にまで届く)こころと身体の変容スイッチは入らないのです。自然や神宮が呼応する縁起のインタラクションによって、新しい世界が立ち上がるのだと思います。

 願わくは、この文章を読んでくれた読者が、ひとりでも多く「神宮125社めぐり」に興味を持ち、志してくれることを祈りたいと思います。この素晴らしい体験に参加してくれる仲間が広がることは、いのちの羅針盤の精度を底上げするレジリエントな運動になると信じます。
  わたしたちは、ホモ・サピエンスの末裔として、このまま迷走による絶滅の道を進むわけにはいかないのです。

終わりから始まる
 今回のワーケーションに応募したとき、愛犬のララ(ミニチュアシュナウザー)にも同行してもらう予定でした。しかし予期せず、昨年(2022年)の4月の終わりに、15歳と半年で、天命を閉じてしまいました。ララと一緒に伊勢を旅したこともありましたから、彼女と2度目のお伊勢参りを果たせなかったことは、唯一の心残りです。
 10日間にも及ぶ「神宮125社めぐり」。安定した天気に恵まれ、穏やかな天候の中で過ごすことができました。ありがたく、幸いでした。とはいえ、125社を全て網羅する行程は、ご機嫌なバケーションとは言い難いものでした。外宮と内宮以外は、ほぼ初めて訪れる社ばかりです。やっと近くまで来れても、入り口が分かり難いお社も多くありました。時に道に迷いながら、朝から日が暮れるまで、休む暇なく車を運転し続けなければ、このツーリングは完走できませんでした。そんな中、快くドライバーを引き受け、笑顔でサポートをしてくれた頼もしいパートナーの細君、本当にありがとう。一緒にまた旅を。

 最後に、「伊勢市クリエイター ズ・ワーケーション」を企画し、コロナ禍の中、何度もメールで丁寧な調整をしていただいた伊勢市観光誘客課の立花 健太さん、立花さんからバトンを受けて、今回の宿泊先や、レンタカー店の紹介から、旅行中でのいろんな相談を快く、迅速に応対していただいた三宅 亮次さん、三宅さんのご紹介で、わたしの企画のお話を聞いてくださった観光振興課の奥野 翔平さん、三宅さんの後任で、ワーケーション後記の提出が、ずいぶん遅れたにもかかわらず、根気強くお待ちいただき、文字校正からフィニッシュまで周到にお付き合い願えた森下 和哉さん、この場を借りてみなさんにお礼を申し上げたいと思います。
※現在、奥野さんは観光誘客課へ、立花さん、三宅さんは別の課へ移られ、ご活躍されています。
 二見浦 滞在の際、岩戸館の女将の百木 美穂さんには、たいへんお世話になりました。女将さんのご厚意が、今回の旅の広がりと深みの強度を増し、不思議と驚きに満ちたものになりました。心より感謝申し上げます。具体的には、二見、鳥羽、志摩 、五十鈴川方面や天の岩戸、御塩浜、神宮御園、神宮神田へわざわざお連れいただき、お社の案内やそこにまつわる言い伝えを教えてくださったばかりか、御塩殿神社では、神宮所管社御塩殿神社清掃員・伊勢市二見町荘自治会 区長の里田 和也さんをご紹介いただきました。里田さんは、本文でも触れましたが、御塩殿神社のことや御塩焼固について親切にご教示くださいました。ありがとうございます。
 女将さんは、さらに「伊勢志摩観光コンベンション機構」にお連れくださり、事業推進グループ長の須﨑充博さんと二見観光案内所の田中さんをご紹介くださいました。不思議なことに、須﨑さんは「伊勢市クリエイター ズ・ワーケーション」を企画された立花さんの、当時の上司(部長)であり、企画の責任者だったのです。奇縁に感激しました。
 これを機に、幸甚にも須﨑さんを筆頭に、同僚の桝谷 善大さんお二人が、わたしの企画する「お伊勢さん125社をめぐるマラニック」の計画に耳を傾けていただき、興味を持っていだくことができました。お二人のご尽力によって、企画がスムーズに滑り出し、計画が加速しています。お二人は、まるで神様のお使いではないかしらん? そう思えるほど、迅速で、深謀遠慮と懇篤なアドバイスをいただいています。須﨑さんは観光誘客課の森下さん、奥野さんも繋いでくださいました。おかげさまで、チーム連携も広がっています。深謝申し上げます。
 ご縁をいただいたみなさま、どうか、引き続きなにとぞよろしくお願いいたします。

上野 哲矢 (Hiroya Ueno)  
アートディレクター /グラフィックデザイナー/プロデューサー
http://aunotes.co.jp

【滞在期間】2023年3月3日〜12日

※この記事は、「伊勢市クリエイターズ・ワーケーション」にご参加いただいたクリエイターご自身による伊勢滞在記です。
伊勢での滞在を終え、滞在記をお寄せいただき次第、順次https://note.com/ise_cw2020に記事として掲載していきます。(事務局)