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2020年1月8日 どんな今日でも

先が見えないことに対して感じる不安やストレス。
抱えているものがある、支えなければならない人がいるからこそ尚の。
何かいつもと異なる判断や動きを取らなければならなくなった時用の、頭と身体の余力を常に持っていなければならないような。
ずっとこうやって頭や身体のどこかに力を入れたままやっていくしかないということなのかなぁ。



ニュースで見聞きしたり、自分に降りかかった理不尽を、大きな判断をしなければならない立場の人のせいにだけすることは簡単だけど、そうしたところで、で、この先どうするの?この先どうなるの?という疑問は消えないままだ。

同調圧力。正義中毒。
自分から最も遠いところにあって欲しいこと。こういう事態だと自分の近くまでそういうことが押し寄せてくる。毎日のルーティンをこなしながら自分と家族の身を守ることを考えて好きな人応援する人の安全を祈って、それだけでもういっぱいなのに。



舞台の中止や初日の延期、チケットの発売の延期が次々と。当日券の販売中止や発売座席数の制限も次々と。去年一年で一生分の「仕方ない」は使い尽くした気でいたけど、今年もまただ。
いつかまた以前のように、と思うことは希望なのか、それとももはや幻想なのか。観客の私がそう思うということは創る側の方々はどんな思いでいるのか、それを思うとただ胸が痛い。あんなに心を満たす時間をもらえているのにこういう時何も出来ない自分の無力さが、ただただ虚しい。



人生を諦めたいと思いむなしく過ごした1日も、誰かがあれほど生きたいと願った1日


太陽の子の取材で春馬くんが答えていた言葉。こんな言葉言えない、私のこれまでの人生や経験からは出てこない。「誰かの願い」みたいな、あるのかないのか確かめようのないものの中にさえ杭となるものを求めていたのか、杭となるものを求めなければと思っていたのかな。


ふとした時にまたそういうぐるぐるが熱を帯びてしまう。
昼間見上げた青空に割と力強い雲が浮かんでいたのを見た時、日が落ちる時のオレンジから上にいくほどに青が深くなるグラデーションを見た時、ぐるぐるに苛まれる。
またなんだよ、あれから10ヶ月も経ったのにまたおんなじなんだよ、今年の春たくさんのものを取り上げられて突然放り出された空白に胸を痛めていた春馬くんの思いがこれほどまでにたくさんの人の心に刺さったままなのに、またおんなじなんだよ。

「彼が生きれなかった今日を生きている自分達」という言葉がずしりと重たく胸に張り付く。これがとどめとなってしまう人がいませんように。隠れながら祈ることしかできないけれど。どうか。どうか。


そんな鬱々とした思いでデンタルフロスをかけていたら、力のかけ方、方向を間違えてしまったようで、奥歯の銀歯が外れてしまった。歯医者、行かなきゃ。通勤時間分のゆとりが持てるうちに、行かなくちゃ。その先メンテナンスされた気持ち良い歯で楽しみを安心して満喫できる日が来ると信じて。






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