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マスターだかママだか

わたしは先生という人がすきだ。
言うことをうんうんと聞いて、後ろをついていけばいい存在は子ども心に頼もしく、大きな背を縮ませて目線を合わせてくれるさまは、自分も特別なのだと思わせてくれた。
先生という言葉からわたしが感じるのは、知性であり、強さだ。これまで出会ってきた先生の影響は大きいだろうな、と何年も会ってない先生を思い出す。

だから、自分が先生になるというのは、どうにもおかしな話だと思っている。

「エッセイなんて誰でも書けるよ!」
わたしは友人にそう言った。エッセイなんて、というのはエッセイをバカにしているわけでは決してない。エッセイは思うままにつらつら書けばそれでいいんだもの、誰でも書けるに決まってる、と自分の感覚そのまんまをくちから出したのだ。

「じゃあエッセイ講座をやって!」
そう言われて、(はて)と初めてその方法を考えたのだった。エッセイってどうやって書くんだろう、わたしはいつも何も考えずに上から下に喋るように書いてみるけどさ。あなたもそれをやりなさいよ、というのは極めて乱暴な物言いだってことは、考えずともわかる。だから、考えた。エッセイを書いたことのない過去のわたしに届けるなら、どうするかしら。
そうやって考えたのが「誰でも書けるよエッセイ講座」だった。
試しに講座をやったら、受講者に思いのほか喜んでもらえた。初めての講座が終わり達成感で胸いっぱいのところに、お手伝いしましょうかと支援者も現れ、わたしも受けたいと言ってくれる人も現れ。
あれよあれよとわたしは、一緒に書く人、になった。

希望者を招いてオンラインで講座をやるにあたって、一番に頭に浮かんだのは「わたしゃ先生にはなれないぞ」だった。そうなのだ、わたしは先生にはなれない。先生というあんな頼りがいのある人を目指すのは、恐れ多く、居心地が悪い。
だから、この講座で、わたしと受講者は先生と生徒ではない。受講者が講座のあとに書いてくれたエッセイを読ませてもらうと、講座は「カウンセリングのような、コーチングのような時間でもあった」と表現されていた。そんなふうに感じてくれたことが、素直にうれしい。

思うにあの講座は、駅から徒歩10分の小道にひっそりあるスナックなのだ。

わたしはママだかマスターだかわからない風貌の店長で、受講者はふらりと吸い寄せられたお客さんなのだ(そしてわたしの講座の支援者は、黒髪をひっつめて結ったバーテンだ)。
わたしはこの講座で、あなたに何も教えない。講座だけどなにも教えられるものはない。ただ、ちょこっと喋る。いや、実際にはけっこう喋ったかも。記憶が曖昧だ。

その喋ったのを聞いてくれたお客さんが、ぽつりぽつりと心にあるものを言葉にして話してくれるのだ。自分の気持ちがまっすぐ表現できないことがあっても、たどたどしくてもいい。たどたどしさに、心の深い深い本音が潜んでいることもある。
そして、あなたがすらすらと平気な顔して喋るからって、そこに哀しみの一滴が潜んでいないとも限らないことも、ちゃんと知っているつもり。だって、捕まえているつもりの言葉が、じつはとっくに腕の外へ逃げていたってことは珍しくないでしょう。その背中を一緒に追いかける時間が一番楽しいから、わたしにも応援させてほしい。

けれどときおり、わたしの言葉が途切れることがあると知っていてほしい。なぜならわたしたちの会話は我が家の脆弱なwi-fiにのみ支えられているから。わたしの声があなたの耳に宇宙人のように聞こえたときに、カウンターの陰からバーテンが現れるわ。バーテンはグラスを磨きながらあなたに言うの。「マスター、ちょっと遠くに行ってるようですね」と。続けて、あなたの心が陰らないよう、穏やかに話しながら飲み物を作ってくれる。グラスがカウンターに滑るころには、わたしは遠い宇宙から帰還しているから安心してほしい。そしてまた、わたしのバーテンはカウンターの陰でまつ毛を伏せてグラスを磨く。

実際にはパソコンかスマホの画面で出会うわたしとあなただけれど、きっと楽しい時間になると思う。
わたしはあなたをもっと知りたい。
あなたの言葉とあなたの間に横たわる距離を、温度差を、あなたにとって最も心地よいものにしたい。
そして、その限られた時間が終わったあとにこそ、自分の言葉で自分を語った事実が、受験の朝のホッカイロ的にあなたの心と身体を温めるか、あるいは手に入れたばかりのカメラのようにあなたを歩いたことのない小道へ誘い込むものであってほしい。

わたしはあなたを待っています。いつだって。
あなたがあなたの背中に追いつくその瞬間を見られるなら、いつだって。

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