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貝殻ばかりの箱のなかで(1)

雨上がりを待っていた。

大学の生協前は教科書を求めて新入生が列をなしている。つるりとした床は靴跡に靴跡が重なり、もやもやと汚れていた。ガラスのドアを押して外に出ると、コンクリートの階段が五段ある。屋根のあるぎりぎり、その階段の一番下で、ぼくはしばらく立っていた。ノースフェイスの黒いリュックはぺしゃんこで、財布と家の鍵と目薬と、分厚いハードカバーの本が一冊だけ入っていた。本が曲がってしまわないように、一番気に入っている雑貨屋さんの袋に入れて、慎重にリュックの底に置いたのだった。

「桜が咲いたら、また会いましょう。」

この本を貸してくれたあの人はそう言った。手渡された本を両手で受け取ったものの、「桜が咲いたら」の曖昧さに、「はあ。」と曖昧な声で返事した。一度しか会ったことのないあの人との約束を、ぼくは毎日忘れずにいて、講義の空いた時間にも気づけば生協前に立っていた。

あの人に初めて会ったのは、三月の頭だった。

午後の講義を終えた15時すぎ、ぼくは紺色のコートを着て学部棟を出た。マフラーをぐるぐるに巻いても、ほんの隙間から寒さが首元に染みてくるような、三月とは思えない、そんな日だった。

門を出て歩く。自転車が二台、揃って横を通り過ぎていった。くちで息をする度に、マフラーとくちもとの間で、水蒸気がもたついては消える。白い息越しに見える地面は濡れていた。呼吸だけを楽しんで歩いていたら、一分もしないうちに、目的の場所に着いた。いつもなら通り過ぎるであろう古書店。

看板にはでかでかと「古書」とだけ書かれ、かすれた明朝体からこの店の古さがうかがえる。よく見れば棚に並ぶ本が見えるが、すりガラス越しに見える店内は薄暗い。

財布には家庭教師のバイト代、一万円。このお金で、今の自分を変えられるような本がほしかった。

緊張しながらドアノブを握って中に入ると案外明るく、想像より新しく見えた。少しほこりくさくて乾燥した店内には木製の本棚が並んでいた。静かに並んだ本は、誰のことも期待していないように見えた。少し安心してドアを閉める。大型書店によくあるポップに囲まれた本屋にはうんざりしていたのだ。

なんとなく、ハードカバーの小説が並ぶ本棚が気になった。見知った小説家の本もいくつか並んでいて、中でも目についたものがあった。『貝殻ばかりの箱のなかで』というタイトルが気になって手に取り、一番後ろのページを見ると、ぼくが生まれた年に書かれた本だった。

何の話なのかも分からないまま、買うと決めた。一体いくらなのだろう、疑問に思うも値段のシールがないからわからない。

そのとき、音もなく現れたのが、あの人だった。

「その本、いいタイトルですよね。」

真っ黒のエプロンをつけて、黒縁メガネをかけた色白のその人はこの店の店員だろうか。30代から40代に見えるその人はぼくの返答を待たずに

「その本が気に入ったなら、ただで差し上げますよ。」

そう言うので驚いた。

「ただ、ですか…」

「はい、気に入ったのなら。」

ぼくの困惑を気にせず、穏やかな低い声でその人は話す。くちのなかが、妙に乾いた。

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(2)に続きます。



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