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【天気の子】 忘れていた思春期を取り戻す

ねえ、今からnote書くよ。

どうもです。飲み会とかで、どんな人がタイプなんですか?と聞かれたら、「宮水三葉です」と即答している石ころですw

新海作品はプロダクトだ。魂を込めたプロダクトをステルスで作り込み、世にリリースし何かを問うてみる新海さんはれっきとした起業家だ。新海さんのメインターゲットは中高生、10代、20代だ。

大人が作るプロダクト。それが、中高生にバカ受けする。すごい!!思えば、中高生たちが毎日使うラインやインスタグラムだって大人やおじさんたちが作っているプロダクトなのだ。ディズニーランドだってそうであろう。そんなイケてるおじさん、イケオジに俺もなりたい...!新海さんや須賀さんのように!

前置きはここまでにして、

ここから下はネタバレしまくるので、ご注意くださいませ。過去作品のネタバレも含みます。

過去作品にも登場する 「大丈夫」という言葉

新海作品には「大丈夫」という言葉がよく出てくる。特に『秒速5センチメートル』(2007年)では何度も出てくる。

貴樹くんと明里のお互いが中学校1年生の時に、いよいよ遠距離化が加速することが決まり、電車のホームの別れ際のシーンにて、

「あの、貴樹くん」 僕は「え」、という返事とも息ともつかない声を出すことしかできない。「貴樹くんは・・・」と明里はもう一度言って、すこしの間うつむいた。明里は思い切ったように顔を上げ、まっすぐに僕を見て言葉を続けた。「貴樹くんは、この先も大丈夫だと思う。ぜったい!」

別れた後、電車の中で貴樹くんは考える。

「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う」と、明里は言った。何かを言い当てられたような 
ーそれが何かは自分でも分からないけれど、不思議な気持ちだった。同時に、いつかずっとずっと未来に、明里のこの言葉が自分にとってとても大切な力になるような予感がした。

大人になり、IT企業で優秀なプログラマーとして、無事に社畜の子になり果てた貴樹くんは、退職した日の帰りの夜道でまた考える。

雪だ。
せめて一言だけでも、と彼は思う。その一言だけが、切実に欲しかった。僕が求めているのはたった一つの言葉だけなのに、なぜ、誰もそれを言ってくれないのだろう。そういう願いがずいぶんと身勝手なものであることは分かっていたが、それを望まずにはいられなかった。久しぶりに目にした雪が、心のずっと深いところにあった扉を開いてしまったかのようだった。そして一度それに気づいてしまうと、今までずっと、自分はそれを求めていたのだということが彼にははっきりと分かるのだった。ずっと昔のあの日、あの子が言ってくれた言葉。貴樹くん、あなたはきっと大丈夫だよ、と。

「大丈夫」という言葉に、一体なんの力が宿っているというんだ、なぜ新海さんはこの言葉にそこまでこだわるんだ。理解できない。大学生の時に初めて『秒速』を見てそう思ったし、社会人になって小説版を読んでみてもやっぱり同じ感想を抱いた。

「大丈夫」という言葉は天気の子の映画の挿入歌の一つである『大丈夫』(作:RADWIMPS)のタイトルにまで採用されている。

天気の子のラストシーン

天気の子は「僕たちは大丈夫だ」という言葉で締めくくられる。一体何が大丈夫なのか?

僕たちは日常生活で、どんな時に「大丈夫」という言葉を使うだろう。

風邪を引いて発熱して周りから「大丈夫?」と心配され「大丈夫です」と言う。最初から元気満々な時に「僕は大丈夫です!」なんて言うことはないだろう。

「出来ます」「 I can do it」という意味での「大丈夫です!」はあるかもしれないが、ここで言っているのは「I'm okay」「 I'm all right」「 I'm fine」の方の大丈夫だ。

そうゆう意味で「大丈夫」というのは「大丈夫じゃない」状態を経ないとたどり着けない境地なのかもしれない。

新海作品での「大丈夫じゃない」状態というのは、どうゆうものを指すか?

それは、自信を持って前を向けない状態ではないか。心に何かモヤモヤしたものを抱き、現実から目を背けてしまいたくなるような、そんな感覚だ。非常に不安定だ。

人間は感情を強く突き動かされた結果、後遺症のような形で胸のうちに何かしらの大丈夫じゃない感覚を宿すことがある。当たり前だが無関心の状態だとダメージを受けようがないが、思い入れが深ければ深いほど、伴う代償も大きくなる。

少年は、世界の形を変えてしまうほどに、誰かに対して、憧れなのか恋なのか、何かしらの強い感情を抱いた。無我夢中で何キロも走り続け、銃をぶっ放すほどに、その感情は強かった。帆高くんは東京から天気を奪ってしまった出来事以降、ずっとモヤモヤしていたように見受けられる。自分の選択により、東京の天気が狂ってしまったという事実。あれ以来、陽菜さんに会いにいかなかったのも、それが原因かもしれない。その秘密を知っていて、東京で、どんな顔をして陽菜さんに会えばいいか分からない。須賀さんに、世界なんて最初から狂ってるんだからあんまり気にすんなよと言われ、otenki.jpユーザーのおばあちゃんから、この辺一体は昔は海だったから、元に戻っただけと言われる。陽菜さんにもそう言えばいいのかな・・・。もちろんこれは、自分の選択から目を背ける現実逃避であり、選択と結果の因果関係を否定し、正当化する術、テクニックだ。そんなことを考えている中、目の前に、空に向かって祈っている陽菜さんが現れる。その姿を目にした瞬間、帆高くんの目から不安や迷いが消え、目に力が宿る。何かの確信へと変わる。

「いや、違う。やっぱりあのとき!!僕たちは、世界を変えたんだ!!!」

そう叫ぶ。

陽菜さんが100%の晴れ女だと言う事実。その陽菜さんが一度身を犠牲にして世界を救ったこと。その後、自分の選択によって世界を再度破滅へと導いたこと。これらの二人だけの秘密を、帆高くんは疑っているわけではないはずだ。そのため、上記の帆高くんに走る稲妻のような衝撃は、「あの経験は幻じゃない、やっぱり本当だったんだ!!」という、『君の名は。』の時のような感覚とは異質であるはずだ。では、何に対して今さら激昂をあげているのか。では一体何が立証されたのか?

自分の選択が間違ってたのか正しかったのかなんて分からない。それでもあの時の選択は本物だったし、目を背けるようなものでもない。目の前の陽菜さんという女性は、自分にそんな選択を取らせるほどにやはり輝いていたのだ。ちゃんと自分の選択に自信を持っていいんだ。陽菜さんが、そう思わせてくれる。自分がとったその選択に向き合おうと思えるし、前を向いていこうと思える。大丈夫だと、陽菜さんは自分にそう思わせてくれる。陽菜さんはそんな存在なのだ。そして自分も陽菜さんに対して思う。

僕たちはきっと、大丈夫だ。

と。

泣き出しそうでいると、「大丈夫?」ってさ、君が気づいてさ、聞くからさ、「大丈夫だよ」と僕は慌てて言うけど、なんでそんなことを言うんだよ、崩れそうなのは君なのに。(RADWIMPS『大丈夫』より)

思春期の少年と少女。二人とも全然大丈夫じゃない中、

君の大丈夫になりたい。君を大丈夫にしたいんじゃない、君にとっての大丈夫になりたい。 (RADWIMPS『大丈夫』より)

お互いに繋がり合うことで「大丈夫」になっていく物語。

「大丈夫」というのは、それぞれが抱える葛藤、後悔などいろんな思いから解かれ、前をまっすぐに見れるようになった状態のことではないか。非常に安定している状態だ。

新海監督もインタビューで次のように述べている。

ただ、『人とつながりたい』という気持ちは、誰にでもあるはず。そういう、つながりたいと思っている人間同士が、一緒になにかを乗り越える。僕にとって家族は、そういうような、何かを一緒に乗り切るパートナーなんです」

思春期の青春とは、不自由そのもの

なぜ新海作品の主人公には思春期の青少年が多いのだろう。

それは、大人よりも思春期の方が、強烈に感情を動かされることが多いからではないだろうか。

大人になるとどんなこともだいたい経験したことがあるようになる。学生時代の初恋の人との時間は何もかもが初めてだが、大人になってしまっては各イベントに新鮮味はない。

また大人と違って、思春期は何かに縛られていて、不自由だからこそ、結果的に何かに特別な感情を抱くということもあるかもしれない。父や田舎に縛られるテッシー。『秒速』の貴樹くんも、まだ子供だから住む場所なんて自分の意思だけでは決められない。だから遠距離の環境が生まれる。学生だから、雪の中、長時間、電車を乗り継いで遠出をするだけで不安も募る。天気の子では、中学生が一人で東京に出てきた。

マクドナルドでハンバーガー1つすら買えないほど金銭的に縛られたからこそ、たった一つのチーズバーガーが、人生で一番美味しい夕食になる。それは貴樹くんがおにぎりを食べる瞬間と同様だ。

泊まらせて働かせてもらっていた須賀さんのおうちから突然追い出され、居場所を無くし、大切な人も今の家から出ていかないといけなくなり、離れ離れになるかもしれない。いきなり全方面から不安がどっと押し寄せてくる。なんとかしようと頑張って動き回っても、泊まれる商業施設は限られていて全然入れない。警察には止められて追い回される。雪の中、身体的にもきつくなってくる。ギリギリのところで戦った果てに、やっと入れたラブホだからこそ、この上ないほど安心感が生まれるのだ。大人だったら秒で宿に入って終わりであろう。

そして、そんなラブホでの陽菜さんとの至高のひと時。そこからくる安心感や幸せは、長くは続かないことを帆高くんはなんとなく分かっている。

「もしも神様がいるのならば、お願いです。もう十分です。もう大丈夫です。僕たちはなんとかやっていけます。だから、これ以上、僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください。神様お願いです、僕たちをずっとこのままでいさせてください。」

長続きしないと分かっているから、こんなお願いを神様にするのだ。それと同時に、最高の瞬間を最大に噛み締める。

青春というのは「青い春」と書く。青空の後には夕焼け空が来るように、春の後には夏が来るように、どちらも必ず終わりがくる。好きで好きで仕方ないことに、終わりが来る。もっともっと皆と野球をしたいのに、夏の甲子園で部活動から引退しなければならない。ずっと続いてほしい学生生活であっても、3月には卒業式を迎える。そういう有限さが我々を熱い気持ちにさせる。なんて美しい花火なんだろうと思っても、パッと咲いては、一瞬で暗闇に消えていくように。有限であるからこそ、後悔したくないと想う。そこに情熱が生まれる。もっと頑張ろうと思える。
         (出典:TikTokと、日常と、音楽と、大人と、青春。

この、子供としての生きずらさ、息苦しいという感覚は、自分も完全に忘れていた。あぁ、自分も知らぬ間に大人になっていたのか、と実感させられるほどに。

年齢によって出来ないことが多いし、自分が信念を持っていても、信じてくれない大人が山ほどいる。そういえば、中学生の時は僕も友達も、家出をした時は確かに地元のマックか公園が駆け込み寺だった。

それと同時に、全てを振り払って感情的に一心に進む、そんなことも少なくなったなと。

やはり青春や感情の動きというのは、縛りや不自由さと両輪なのかもしれない。

だが、大人を否定することもできない。子供と大人の間には情報の非対称性があるから仕方がない。パトカーで舌打ちをしていた警官は、帆高くんたちがそんな秘密の世界に生きていることを知らないのだから。

陽菜さんに至っては、なんとなく息苦しいというレベルではなく、親がいないため自分と弟の生活費を稼がないといけないので、死活問題だ。「私は、早く大人になりたいです」と力強く言うのも納得する。

大人が青春を取り戻すことはできるのか

大人が青春を取り戻すことは可能なのか。それは、須賀さんの行動にヒントが隠されているかもしれない。

「人生を棒にふってまで守りたい誰かがいること。それは羨ましいことだ」

と警官から聞き、須賀さんは無関心を装うものの、無意識に涙を流していた。

そして、帆高くんが警察に囲まれ、銃を向け合うシーンで、須賀さんはどちらかというと警察側の立場だった。帆高くんをなだめる側だ。だが、次の帆高くんの言葉を聞いた瞬間に須賀さんの中でも何かが変わる。

なんで邪魔をするんだ!!僕はただ、もう一度あの人に会いたいだけなのに

直後、須賀さんを警官を殴るという、人生を棒にするような行動をとってまで、帆高くんを守ろうとした。この時の須賀さんから見たら、警官たちはたしかに自分たちを不必要に縛ってくる邪魔な存在に思える。そしてその縛りに対して感情的になり、真っ向から挑む。少年の心を取り戻した瞬間だ。

他者の言動に注意深く耳を傾ける。それらに対する自分の気持ちにも寄り添い、今まで目を背けていた自分の心のうちの小さなモヤモヤを拾い集める。微かに聞こえる心の声に従うということだ。その結果、ハッと気づく瞬間が訪れるのかもしれない。

新海監督の作品に共通するテーマ

子供であるがゆえの不自由さや縛り。そこから、強烈に感情を動かされた経験、そして後遺症として心に残ってしまうなんとも言えないモヤモヤ。

そのモヤモヤの正体は、『秒速5センチメートル』であれば「過去への固執」であり、『君の名は。』であれば「大切な何かを忘れてしまった喪失感」であり、『天気の子』であれば「選択に対する罪悪感と後ろめたさ」なのかもしれない。

秒速5センチメートル小説版のラストは、次の文章で締められている。

この電車がすぎた後で、と彼は思う。彼女は、そこにいるだろうか?ーどちらでもいい。もし彼女があの人だったとして、それだけでもう十分に奇跡だと、彼は思う。この電車が通り過ぎたら前に進もうと、彼は心を決めた。

『秒速』の貴樹くんは最後の最後に固執から解放され、「大丈夫」になる。『君の名は。』の瀧くんも、電車で三葉とすれ違った瞬間、忘却や喪失から解放され、「大丈夫」になる。大切なのは、最後に異性と結ばれるか否かでなく、一人の人間として、心のありようが「大丈夫」になることだ。

天気が晴れなくても、心が晴れれば、それでいい。そうゆうふうに思えるようになることが、大切なのかもしれない。ちなみに、石ころの心を晴らしてくれる方も、絶賛募集中です。

(終わり)

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