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山の民、山人

実在する人々
今から100年程前、昭和の初期、当時の宮崎県椎葉村の事です。     この山村での人々の暮らしは、定住しているものの、稲作ではない焼畑  と狩猟の暮らしでした。老練者の元、狩猟に参加する人々は各々の役割が あり、狩った獲物は全員に等しく分配される。猟に参加する人、しない人 の区別はなく・・。
また、土地に対する所有の形は、一個人ではなく、共同で所有するものであり、所有をめぐってのトラブルは、元々定住ではなく、移動遊動的故、土地所有の意識が無く、発生しないと当時の村長は語っています。

山人
平等で公平、権力格差が無い相互扶助の理想的社会を作ろうと、意識する人々によって作られた共同体ではなく、住民の土地に対する思想が平地に於ける我々の考えと異なっているために、何ら面倒もなく斯かる土地分割方法が行われるとされています。これらの話は、民俗学の発端であるとされる 柳田國男の「後狩詞記」や「九州南部地方の民風」に表されています。  また、稲作=日本民族の起源ではなく、稲作民族(天つ神)が到来し、それまでの狩猟採集民(国つ神)は従属させられるか、山に逃げた。彼らは山人と呼ばれたものの、後世に至っては、仙人の仙という字をヤマビトと訓ませている。柄谷行人は、柳田国男にとっては、山人は滅ぼされた先住民を、征服者の子孫であり、且つ先住民の血を引いているかもしれない自らの弔い、供養とするものであると、述べています(遊動論)

山の民
中高生のいつ頃の出来事か、記憶が定かではありませんが、猪狩りのように、人間の手足を棒に逆さに縛り、人間が人間を運んでいる写真や、山の中の渓流にボロ(パッチワークになっている上着、アイヌや東北の民族着のようなデザイン)を着た子供から祖父母までの各年代で構成される一族(?)の写真(先住民のように見える)を数カット見たことがあります。写真ですから明治以降のはずです。とてもショックを受けました。彼らは「サンカ」と呼ばれる実在した山の民です。戦前まで日本にいた山の民です。山の中を
移動遊動しながら採集、狩猟の暮らしをしつつ、戸籍も土地も持たぬ、国家からは自由の民でした。
山の民は、定住農民と交流交易のあった武芸集団(後の武士)、芸能集団、木地師、マタギ、山伏、あるいは妖怪、天狗等のルーツ、モチーフともされています。軍事力を増強させる、そのためには経済力、人身把握力が必至であった当時の国家にとって、彼らの存在はアナーキーなものであったはずです。従って明治期より戦前迄には、彼らは捕えられ山の中から追放されました。定住民へとなっていきました。
定住=土地所有=経済格差=文化的格差=階層化社会これに対し、定住農耕民の社会では、信用金庫のルーツともなったお金を融通し合う無尽や頼母子講、対等な共同作業的なユイ等の社会制度を定住故の矛盾の解決策として生み出しました。これは、山人や山の民の思想が定住以降の人々の中にも生きていると思えてきませんか?
山人や山の民の社会システムは、私達の暮らしの豊かさを考える上で、  貴いものとなるような気がしてきませんか?

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