しなければ

強制や脅迫の中で‹主体性›が生まれるのでしょうか?

「宿題をしなければ!」と考える子の周りには…

「宿題をやらさなければ、いけない!」
「宿題を出させなければ、いけない!」

と何かに脅迫されている大人がいるような気がしてなりません…
子どもに何かを強制させているなと感じた時、大人自身が「何かに脅迫されてないか?」と自問してほしい。

どうして、宿題があるのか?
どうして、学校があるのか?

強制的に「やらされていること」に対して疑問を持ってみてほしいと思っています。

疑問に持つことで、自分なりに理由を考えたり、目的を考えることができるのではないでしょうか。自分なりに目的を持つことができたら、そこに強制や脅迫は存在していないはずです。

もし、どうしても「やらされていること」に目的や理由を見つけられない場合には…

「やらされていること」を利用することを考える!

どうしても、宿題をやる理由学校へいく目的を見出せない場合には、利用する方法を考えてみてほしい。

もし、利用する方法が見つからないときには周りにいる大人に相談してみよう!

目的や理由を教えてくれるかもしれないし、利用する方法を教えてくれるかもしれない。目的も利用する方法も教えてくれずに、ただ「宿題をやりなさい」「学校へ行きなさい」と言う大人の意見は鵜呑みにしない方がいいかもしれない…

最後までお読みいただき、ありがとうございます😊
強制の中では主体性は生まれないと思います!


宿題を強制され続けた結果…
宿題をやらないと怒られるから「宿題を出してください!」と泣いて懇願する生徒もいます。。。


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