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阿部賢一さんに聞く「生誕100年フラバルとチェコ文学の魅力」前編

2014年はボフミル・フラバル生誕百年! 『わたしは英国王に給仕した』『剃髪式』の訳者である阿部賢一さんに、翻訳者になるまでの経緯、フラバルとチェコ文学の魅力について伺いました。

阿部賢一 あべ・けんいち
1972年東京生まれ。東京外語大学大学院博士後期課程修了。現在、立教大学文学部准教授。著書『イジー・コラーシュの詩学』(成文社)、『複数形のプラハ』(人文書院)、『バッカナリア 酒と文学の饗宴(共編著・成文社)。訳書に『プラハ』(ペトル・クラール著、成文社)、『プラハ カフカの街』(エマヌエル・フリンタ著、成文社)、『わたしは英国王に給仕した』(ボフミル・フラバル著、河出書房新社)、『火葬人』(ラジスラフ・フクス著、松籟社)、『もうひとつの街』(ミハル・アイヴァス著、河出書房新社)、『夜な夜な天使は舞い降りる』(パヴェル・ブリッチ著、東宣出版)、『剃髪式』(ボフミル・フラバル著、松籟社)、『エウロペアナ 二〇世紀史概説』(パトリク・オウジェドニーク著、共訳、白水社)などがある。

■昼と夜の顔が違う街で

――阿部さんは生まれも育ちも新宿だそうですね。

阿部 そうなんです。うちは歌舞伎町の近くで、駄菓子屋をやっていました。

――ど真ん中じゃないですか。

阿部 住んでいるとそういう感覚はありませんが、昼と夜の顔が違うということは感じていました。例えば、昼間「おお、ケンちゃん」と挨拶してくれたおじさんが、夜会うと誰だかわからなかったりするんです。声がガラッと変わって、女の人みたいになっているから。子供ごころに、いろんな生き方があるんだなと。

――本が好きな子供でしたか?

阿部 そうですね。祖母の部屋の本棚に世界文学全集が並んでいたんです。家の中でも暗い場所にあったから怖くてなかなか手を出せなかったんですけど、小学生のころ『ロビンソン・クルーソー』や『宝島』を読んだら、止まらなくなって、こんな世界があるんだと思いました。小説が好きになったのは、他にも理由があります。漫画を読み飽きたんですよ(笑)。うちの店では漫画も売っていたから、月曜日は「ジャンプ」、火曜日は「マガジン」という感じで毎日読めたんです。

――うらやましい(笑)。

阿部 ところが何年も漫画漬けの生活をしていたら、だんだん刺激が足りなくなって。中学生になると、読むものを探して紀伊國屋書店に通うようになりました。お小遣いが少ないので、薄くて安い文庫本から順番に買っていったんです。

――例えば、どんな本を読んだんでしょう。

阿部 イプセンの『人形の家』とか。駄菓子屋の店番をしながら読んで「自分もこのままじゃいけない!」と思ったのをおぼえています。でも、ノラのように家を出て行くことはできないと苦悶しながら。いま考えると、小説のなかに入って違う場所で違う人生を生きることが心の支えになっていたのかもしれません。

――大学進学のときに、チェコ語を専攻しようと思ったのはなぜですか?

阿部 ちょうど僕が受験する1991年にカレル・チャペックの『ロボット』の訳者としても知られる言語学者の千野栄一先生が中心になって、東京外語大で新しくポーランド語とチェコ語の専攻が作られたんです。せっかくだから入りたいなと。大学では文学ではなく言語学を勉強しました。千野先生の本をいくつか読んで、チェコにはプラーグ学派と呼ばれる人たちがいて、近代言語学の基礎を築いたということを知ったんですね。言葉がどう伝わるかということにずっと関心があったので、おもしろいなと思って。

――チェコ文学を読むようになったのは?

阿部 1995年にチェコに留学してからです。90年代って、カレル・チャペックとミラン・クンデラ以外のチェコ文学はほとんど翻訳されていない時代だったんですよ。もちろんチャペックもクンデラもおもしろいと思っていましたけど、チェコに行ってから日本語訳が出ていないものを読んで驚きました。ラジスラフ・フクスの『火葬人』やフラバルの作品など、どうしてこんなにおもしろいのに訳されていないんだろう、もったいないなって。

――それで翻訳しようと?

阿部 いや、そのころは全然考えていませんでした。翻訳ってすごくたいへんなことだとわかっていましたし。

――いつごろ言語学から文学に進路変更したんですか。

阿部 96年にプラハの書店で、イジー・コラーシュの『静かなる詩』という詩集に出合ったことが大きな転換点になりました。イジー・コラーシュは、言葉を捨てた詩人なんですよ。ずっと前衛的な詩を書いていたんですけど、脳梗塞になったことをきっかけに、言葉がわからない人にも読める詩はありうるだろうかと考えるようになるんですね。「文盲の人が書いた文字」や「白痴の書いた文字」といった落書きのような詩を書いて、その後は造形芸術のコラージュに移行するんです。マラルメの『骰子一擲』のような視覚的な詩集を1960年代に出していて、ほんとうに衝撃を受けました。イジー・コラーシュについて文章を書きたいと思ったんですね。

――で、10年かけて『イジー・コラーシュの詩学』という本を書いたんですね。

阿部 ええ。イジー・コラーシュのテクストを通して、言葉、時代、社会、文化、美術……さまざまなものについて語ることができる。ひとつの文章を細かく分析することも大事ですが、文学のほうが多くのことを伝えられるんじゃないかと考えました。また、96年にプラハ市立美術館でシュルレアリスムの大規模な回顧展が開かれたんです。トワイエンやシュティルスキーなど、社会主義の時代には表に出てこなかった芸術家の作品に揺さぶられました。そういう美術や詩を批評した言語学者たちの文章も素晴らしかったんですね。文学ってこんな読み方があるんだと目を開かされたんです。

――どんなふうに素晴らしかったんですか?

阿部 文学とそれ以外の言葉を分けるものは何かとか、この詩はどこが特徴なのかとか、どうしてこの表現なのかとか、なぜこのテーマがこの文脈で使われるのかとか、微に入り細にうがって分析するんです。フランスに亡命したクンデラは「批評は西側のものよりもチェコのほうが優れていた」と言っています。チェコは小国ですが、批評が強いから創作もおもしろいのかもしれません。批評に学んだことは多いです。

――言語学と文学だけではなく美術も批評も、いっぺんに吸収したんですね。

阿部 僕が留学した時期もよかったと思います。1989年に東欧革命があって、90年代になるとそれまでタブーになっていたものが一気にオープンになった。あれもこれもみんなで語りたいという時代でした。だから、文学の授業でも絵や映画の話がどんどん出てくる。ジャンルを越えていろんなことがつながっていくんです。また、プラハは小さな街なので、見に行った展覧会のキュレーションをした人に居酒屋で偶然会えたりするんですよ。

――関係者に直接話を聞ける。ビールを飲みながら(笑)。

阿部 そう、ビールを飲みながら(笑)。本当に楽しかったです。

■フランスからチェコを見る

――最初に翻訳したのは何ですか?

阿部 ペトル・クラールの『プラハ』というエッセイです。クラールはシュルレアリスムの詩人で、クンデラと同じく「プラハの春」が挫折したあとフランスに亡命しましたが、ずっとプラハを思い続けた人なんですね。読んだときに、まず言葉がきれいだなあと思って。ほそぼそと訳した原稿を、『カレル・チャペック小説撰集』の年表をつくったときに知り合った編集者に送りました。はじめは駄目出しをされましたけど、時間をかけて手直しをして『イジー・コラーシュの詩学』と同じ時期に本になったんです。

――訳者あとがきによれば、はじめはフランス語訳で読んだということですが。

阿部 プラハに2年くらいいたあと、いったん日本に戻って、また2年間パリに留学したんです。亡命した人と留学生は全然違うけれども、パリにいながらプラハのことを描くクラールの眼差しと、パリに来てもチェコに関心を持っている自分に重なる部分がある気がして、訳してみたいと思いました。フランス語版を参照しながらチェコ語の原書を日本語に訳すという感じだったので、すごく難しかったですけど。それまでも、他にもおもしろいと思った文章は小説も批評もエッセイも関係なく日本語にしていたんです。チェコ語を読んでいるだけでは自分のものにできない感じがして。チェコ語から日本語を引く辞書は単語集レベルのものしかないので苦労しました。

――ずっと関心はチェコにあったのに、なぜフランスに留学したんでしょう。

阿部 チェコが好きだからこそ離れてみようと。いくら日本の人に「フラバルってすごいよ」と言っても、チェコ文学しか読んでいなかったら説得力がないじゃないですか。他の言語で書かれた文学もある程度読んで「セリーヌもすごいけど、フラバルはすごいよ」と言うほうが伝わるんじゃないかなと考えました。フランスに行くことによってチェコの良さを相対的に見られたのはよかったです。

――大学ではどんなことを勉強していたんですか?

阿部 先生が翻訳工房みたいなことをやっていて、チェコ語の文章をフランス語に訳していました。超たいへんでしたね(笑)。

――両方とも母国語じゃないですしね(笑)。

阿部 第三言語から第三言語に訳していく。でも、それがすごくためになったんですよ。チェコ語とフランス語は同じヨーロッパの言語でも構造が全然ちがう。Google翻訳みたいに機械的に訳してもわけがわかりません。原文の単語は何を伝えたくて選ばれているのか吟味することが必要になります。ある花の名前が出てきたとして、学術的に同じ花の名前にすればいいとはかぎらない。花言葉が同じものにしたほうが近い場合もあるわけです。ただ同じ意味の単語に置き換えるのではなくて、その言葉が持っている効果を伝えることが大事だとわかりました。

――言葉の効果を伝えるっておもしろいですね。日本語の見方も変わりました?

阿部 日本語の読み方が広がりましたね。日本語を外国語として見るようになったというか。辞書をよく引くようになったんです。すると知っているようで知らない意味や表現がたくさんあって。また、辞書には用例の出典が書いてあるじゃないですか。この言葉は『方丈記』で使われていたのかとか、いろんな発見があっておもしろかったです。

後編につづく。

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