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『安達としまむら』が読み終わらない

何故ってお前、数ページ読むたびに胸がキュンキュンして耐え切れず本を投げ出しちゃうからだよ。

『安達としまむら』は入間人間氏によるライトノベルで、「安達」と「しまむら」という二人の女子高生の関係性にフォーカスした作品だ。
安達はよく授業や学校をサボる素行不良な少女で、他人との関係性が希薄なクール少女だ。一方しまむらはゆったりとした雰囲気で他者との関係性に対して間口を広げているが、どこかで一線を引いているゆるふわ少女だ。
そんな二人の関係性を取り扱った本作はいわゆる『百合』とよばれるジャンルの作品なのだ。

百合。そう、少女同士の恋愛。あるいは熱い友情をとりあつかったジャンル。
俺は別に特段百合が好きというわけではない。いや好きかもしれない。『RWBY』の二人とか好きだし。いやわからん。考えたことがなかった。でもたしなむ程度には好きだったはずだ。いいジャンルだと思う。元々バディものが好きなので、それが発展して百合も好きになったのだと思う。多分。
とにかく言いたいのは俺にとって『安達としまむら』は最高の作品になったということだ。

その出会いは一週間前にさかのぼる。
俺はゴールデンウイーク最終日に十年に一度レベルの重い風邪を患い、床に臥せていた。そのとき見た夢が『残穢』だったため、とにかく最悪の精神状態に陥っていた。
そこにふと流れてきたのがミステリ作家青崎有吾氏の『安達としまむら』アニメ化決定を喜ぶツイートだった。

青崎有吾氏はマジですごい本格ミステリ作家としても有名だ。そして彼の作品を読めば彼が百合好きであるのは明らかだ。
特に最新作の『早朝始発の殺風景』は「(百合に留まらず)ぼくの考えた最強カップリング特集」だった。最高の作品だった。
そんな人がこうまでアニメ化にエキサイトする作品が、俺は滅茶苦茶気になった。
なので読んだ。風邪のせいで退屈なうえに気分も最悪だったからだ。そんなときくらい、面倒ごとが一切ないゆるふわ日常系の作品を読んでもいいじゃないかと思ったからだ。そしてアニメ化を知らせる公式ツイートには「女子高生二人のゆる~い日常」と書いてあった。なるほど最適だと思った。
きっと安達としまむらという女子高生が閉ざされた時間軸で中身のない日常を繰り広げる作品だと思った。
結論から言えば、それは間違いだった。
『安達としまむら』は面倒ごとが一切ないゆるふわ日常系なんかではなかった。『安達としまむら』はかなりハードな百合作品だった。少なくとも同性愛的雰囲気を匂わせるだけ匂わせて踏み込まないような日和見主義的な作品ではなかった。
そしてすべての青春が普遍的にそうあるように、作中の時間は刻一刻と進み、そんな中で安達としまむらの関係性は薄氷の上を歩くかのように変化していく。そう、本格的なSFがハードSFと呼ばれるように『安達としまむら』はハード百合だったのだ。
ハード百合。まるで人が死にそうな響きだ。だが作中で人が死ぬことはなく、死ぬのだとしたらそれは読者である。死因はキュン死。
それぐらい『安達としまむら』は、胸キュンとエモーショナルの波状攻撃で読者を殺そうとするのだ。ここまでくればもはや凶器である。人を殺せる本は『安達としまむら』と『ギガス写本』くらいである。
そして私は胸キュン過剰摂取によるキュン死を免れるため数ページに一度本を遠くへ放り投げ、精神をリセットするのだ。おかげでいまだに7巻の途中で悶えている。

そもそも、『安達としまむら』がハード百合になった原因の多くは安達が占める。
安達は孤独な少女だ。両親との関係性は冷え切っており、他人を拒絶して生きてきた。だが安達はしまむらが好きになった。そこに理由などなく、飼い始めた頃は警戒心が強かった犬が、いつの間にか隣に寄り添っているように、安達はしまむらに寄り添うようになった。
とはいえしまむらは基本他人に対して淡泊なため、どちらかというと安達が寄りかかっていると表現したほうが正しいかもしれない。
はっきり言って安達の愛はかなりヘヴィだ。なまじ愛を知らずに生きてきたために、その愛は決壊したダムの如く激流となって迸る。
そして安達はしまむらに対する独占欲が強く、その性質が彼女の他人を拒絶する性質と結びつき時に取り返しのつかない事態を引き起こす。
従来の物語ならその失敗の経験。あるいはしまむらとの関係性を通して安達は成長という名目で他者との関わりを持つようになるだろう。
安達は徐々に友達を増やして、明るく笑顔の多い人物になるだろう。
実際『安達としまむら』でも、安達は他者との関わりを持とうとする。それが成長だと自分に言い聞かせて悪戦苦闘する。
だが『安達としまむら』はそこで安達を社会的な成長をさせず、結局友達を作らないまま最終的に『自分にはしまむらさえいればいい』という結論に至らせた。それは社会的に見れば間違いだ。だがこの作品ではそれを良しとした。
ある漫画があった。ぼっち主人公とギャルヒロインによる青春コメディ作品だ。最初はとてもたのしく読んだ。とても好きな作品だった。だがいつからか主人公がヒロインとの関わりを通じて他者との関わりを持つようになった。主人公が社会的な成長を遂げ、作品が孤独を否定したのだ。
そのあたりから話が薄っぺらくなったような気がして、読むのをやめてしまった。
どうも自分は孤独が安易に否定されるのが気に食わないらしい。道徳の教科書を読んでいる気分になる。
それだけに、安達の決断と、その決断を良しとする作品の姿勢にとても感動した。
そういう一種の独善さをもつキャラクターと物語が好きなのだ。
そして安達とこの物語のもつ独善性は二人の関係性をより浮彫にし、薄い膜で包み込み穏やかに熟成させる。それが正しいのかはわからない。だがその瞬間瞬間は間違いなく最高の輝きを見せてくれる。

『安達としまむら』は最高だ。
全然読み進められないくらい最高だ。
風邪が治り、体調は万全となった。だがページを捲る手は遅々として進まず、心臓の動悸は全く治まらない。
これほど風邪をひいた時に向かない作品も無いだろう。
確かにここ数日の体調不良はかなり辛いものだった。だが『安達としまむら』に出会えたことだけは最高だったと言える。
『安達としまむら』を読んでいるとどこからともなくアイス・キューブの『It Was A Good Day』が流れてくる。
きっと『安達としまむら』を読んだ日は良い日だからだ。
今日も良い日になった。明日も良い日になるだろう。


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