木星 - 射手座と魚座の星

木星は英語で「ジュピター」、ローマ神話の最高神の名前(ユピテル)からきており、ギリシャ神話ではゼウスです。「一番偉い神様」であれば、全天で一番明るい太陽が割り当てられそうなものですが、そうはなっていないのがおもしろいところです。もとい、ヘリオス、アポロンといった太陽神はちゃんと別にいて、全てを統べる天空神としてゼウスがその上にある、という世界観は、古代の人々の世界や空間に対する感受性が現れているようで、興味深く思われます。

木星は約12年で12星座を一周します。ゆえに、一つの星座に一年ほど滞在するので、中国では「歳星」と呼ばれるそうです。
たとえば星占いの記事で「年間占い」などを書くときは、この木星が「主役」と言いたいほど、大きな役割を果たします。とても便利な星です。

木星が「便利」な理由は、もう一つあります。
それは、この星が「幸運の星」であることです。
だれでも「来年の占い」を読む時は「来年はどんないいことがあるかな?」と思うのではないでしょうか。
木星はまさにその「来年のいいこと」を教えてくれる星なのです。

木星は、射手座と魚座を支配する星とされています。
現代では、魚座は海王星の支配下にある、ということになっていますが、もともと星占いができた時代には、天王星以遠の星はまだ発見されておらず、従って、星占いのシステムの中に組み入れられていませんでした。伝統的な占星術を愛好する人々はもちろん、木星を今も、魚座の正式な支配星として扱います。現代的な占星術の世界では、木星は「魚座の副支配星」と書かれますが、私は個人的には、今も十分「魚座の支配星」でいいと思っています。支配者が2人いたって、いいではないか、と思うのです。支配星の体系はシンメトリックになっているのですが、そのシンメトリーの美しさも、星占いの魅力の一部だと思います。

射手座と魚座の人にとって、木星は「お守り」のような星であり、分身のような星とも言えます。アセンダントが両星座にある人にとっても、木星は「自分の星」です。更に言えば、どの人のホロスコープにも木星は存在しますから、他の星座の人には関係ない、ということにはなりません。誰の中にも「自分の木星」があるのです。

ただ、木星は約一年をかけて一つの星座を運行します。ゆえに、たとえば小中学生の頃の教室の風景を思い出して頂きたいのですが、少なくともクラスメートの半分は、同じ星座に木星を持っています。同い年であれば、全員の木星が隣り合う2つの星座に収まるはずなのです(例外あり)。干支が同じであれば、木星星座も同じか、隣り合った星座あたりにあるでしょう。
ゆえに、木星の位置する星座は、ある意味「世代的なもの」を示している、と言えます。同世代とだけ過ごすことが多い学生時代を終えて、社会人となり、様々な世代の人と接するようになったときはじめて、木星が自分自身の個性として感じられる、ということもあるかもしれません。

木星が古くからどんな星とされているか、以下に、キーワードでご紹介します。

権威、名誉、富裕、財産、幸福、大きな贈り物、同盟・連合、深遠な知、師、善、偉大な人との友情、大きな贈り物、聖なる場所の主、調停役、仲裁者、論争の裁定者、兄弟愛、仲間、養子縁組、物事が「善いものだ」ということの証明、委託、束縛からの自由、良い旅、社会的責任、悪からの解放、たくさんあること、肥満、肥大、子作り・誕生、相続した財産、気前のいい支払い、哲学、宗教、気高さ、理想、思想、出版・書物、膝(主に走るのに使う部位)、足の速さ、肝臓、生殖にまつわる部分、身体の右側、錫、グレー、白、甘み、etc.,

とにかく「豊かで大きい」イメージです。善いもの、好ましいもの、人々が現世で求めるものの多くが、木星の支配下にあります。

知の星、旅の星。この2つのキーワードは、水星の稿にも出てきました。水星もまた、知の星であり、旅の星です。では、木星と水星はどう違うのでしょうか。

「水星の対岸」の世界。

木星が支配する射手座・魚座の対岸にはそれぞれ、双子座・乙女座が位置しています。前回の「火星」の稿でご紹介した通り、対岸に位置する星座は「ポラリティ」という考え方により、ペアになっています。射手座は双子座と、乙女座は魚座と、対をなしているのです。両者は靴下の裏表のような関係です。互いに一つのテーマを、別の側から見つめているような状態です。

双子座と乙女座は両方とも、水星の支配する世界です。ということは、木星の語ることというのは、水星としくみを共有しつつ、これを反転させたもの、ということになります。ゆえに、「旅と知」というテーマは共有されます。

水星の「旅」は、メッセンジャーとしての旅、あるいは商人の旅です。中立的で、やりとりするもののナカミは問いません。メッセンジャーはメッセージを伝えはしても、そこに自分の考えたことを加えたりはしません。

一方、射手座の旅は言わば「三蔵法師の旅」です。教えを求めて遠くインドまで旅をし、持ち帰った経典を教えとして広める、という行動には、三蔵法師自身の熱い価値観が満ちあふれています。

水星の世界では、やりとりされるものはあくまで相対的・客観的に扱われます。いいメッセージも、あまりよくないメッセージも、メッセンジャー自身が「ジャッジ」することはありません。いいことも悪いことも、ある意味公平に、平等に扱われます。
木星の世界では、その事情ががらっとかわります。木星の世界の旅人は、自分が伝えるべきメッセージの内容を「判定」します。それが善いものだと思えないうちは、伝えたりしないのです。

水星が手紙を扱うなら、木星は分厚い専門書を扱います。水星が自転車なら、木星はタンカーです。水星が「打ち合わせ」なら、木星は「大会議」です。水星は小回りが利き、実用的で、インタラクティブです。木星はどちらかといえば暢気で、精神的で、位高い師が弟子に教えを授けるような、あるいは世界に知を広めるような、広範で一方向的なコミュニケーションのイメージです。

いくつもの世界を行き来する、という点で、木星と水星には似通ったところがあります。ユピテル=ゼウスは、自由自在に姿を変えて天と地を行き来しました。ですがゼウスは基本的には、天界を支配する存在です。マーキュリー=ヘルメスのように使いに走っているわけではなく、メッセージそのものを発信する存在です。水星が天地のあわいを住処とするなら、木星ははるか高い天空に居城を持っています。

真理の直観。

コミュニケーションと論理の星座・双子座の対岸にある射手座は、「理想と真理」の星座です。論理は「善悪」を決めることはありません。善も悪もあくまで相対的な概念です。一方、理想と真理の世界では、善が見出され、肯定されます。絶対的な善というのは、論理的には説明できませんし、おそらくありえないはずです。でも、射手座という真理と哲学の世界には、赤々と燃える太陽のように明白な「善」の存在が直観されてあるのです。そこには理想があり、希望があります。

善があれば、悪もあります。ジュピター=ゼウスは天空の神であると同時に、雷の神でもあります。神話の中でしばしば、ゼウスは悪事を罰するために、雷を打ち落とします。

学生時代、幾人かの先生が「真理はあるか」ということを話されました。ある先生は「ない」と断言し、ある先生は「あるかもしれない」と語りかけました。
私にはどちらなのか、まったくわかりませんが、射手座の人々であればおそらく「きっとある」と言うのではないかと思います。
世の中を統べるような純粋な強い光がきっとあるはずで、だからこそ、自分は旅を続けることができる。これが、射手座=木星の楽観であり、確信なのだと思います。

「治癒」と「救済」のちがい。

現実と感覚の星座・乙女座の対岸には、救済の星座・魚座が位置しています。乙女座のテーマに「看護」「教育」があります。一方の魚座は「救い」です。

どんなに物質的に豊かでも、どんなに健康に恵まれていても、心が救われていなければ、私たちはどこまでも不幸です。身体のケガは治っても、心の傷がいつまでも癒えずに苦しんでいる人は、たくさんいます。
経済的に恵まれているにもかかわらず絶望して命を絶つ人々を見て、私たちは首をかしげつつも、「確かに、お金だけでは幸福にはなれない」と、胸の奥で洞察します。

救うこと、許すこと、束縛から解放すること。魚座的な木星のテーマには、人間が人生の最終的な目的地に求めるであろうすべてのことが詰まっています。

たとえば、木星のテーマに「名誉・権威」があります。どんなにゆたかであっても、人から尊敬されなければ、その人の人生は陰りを帯びるでしょう。子供や孫に愛され惜しまれながら人生を終えたい、と思う人はたくさんいます。貧しくとも、多くの人に慕われて幸福に暮らした人の人生は、光彩を放って木星的です。
幸福の星・木星は、「幸福」の核にある秘密を指し示す星なのです。

地上をゆく旅、死という「人生の出口」。

射手座も魚座も、とても自由な世界です。そのことは「旅」というテーマに示されています。
射手座のモチーフである「射手」は、半人半馬のケンタウルス族で、地上を自由に駆けめぐることができます。
また、このケンタウルスは、ヘラクレスの師でもあったケイローンという医師だとされています。知的にもまた「どこまでもいける」存在であったわけです。さらに神話では、ヘラクレスの放った毒矢が誤ってケイローンに当たってしまい、その苦しみのあまりゼウスに願い出て、自分の不死の命をプロメテウスに譲った、と語られます。つまり「不死と死とを旅した」と言うことも、できるかもしれません。

対岸の双子座にも「不死と死」のテーマが刻まれています。片方は死すべき人間、片方は不死の神の子であった双子の兄弟が「不死」を分け合う、というのが双子座の神話です。双子座の世界では、死の世界までは到達しません。射手座では、本来はいる事ができなかったはずの死の世界に、足を踏み入れることになるのです。

不死の医師であったケイローン。不死も、医師という仕事も、言わば「死の否定」です。でも、彼は苦しみのあまりとはいえ、死を選びました。このことは、木星という星のことを考える時、とても意味深長に思われます。
木星は幸福の星であり、善の星であり、希望の星です。その星が支配するこの射手座という星座で、なぜこれほど「死」が強調されているのでしょうか。
この世で「死」ほど忌み嫌われているものもないように思われます。生き物はすべて、生きている限りは生きようとします。自ら死を選んだ人々も、心のどこかには死への怖れを抱いていたのではないかと思います。「幸福」のイメージの対極にあるのが「死」のイメージではないでしょうか。

ただ、「死」ほど私たちにとって「わからないもの」もありません。死んだことのある人はいないからです。死については本当に様々な人々が、様々な事を語っていますが、どれが真実か、ということは証明のしようもありません。私たちは死を怖れますが、それは「わからないから」でもあります。死が本当に怖い悪いものなのかは、実は、誰も知らないのです。

死というものは人間にとって、永遠の秘密であり、恐怖の源であり、人生の目的地でもあります。
ケイローンは死によって、毒の苦しみから逃れ、安息を得ました。このことはとても示唆的です。喩えどんな苦しみがあったとしても、死によって人は幸福を得る、という示唆なのか。それとも、死があるからこそ生が意味を持つ、といった教訓ととるか。あるいは「死によって幸福が穢されるようなことはない」と理解するか。様々な解釈があり得るでしょう。いずれにせよ、私たちの人生が死という「出口」に向かってまっすぐに伸びており、その道ゆきのなかで私たちは幸福を追求していく、ということにかわりはありません。

しっぽ同士を結びつけて生まれる、真の自由。

一方の魚座は、水の旅です。
旅といっても、こちらは災難から逃げ出す旅です。神々の酒宴に乱入したテュポーンという怪物から逃げ出すべく、ヴィーナス=アプロディテは自分と息子クピード(キューピッド)=エロースの姿を魚に変え、はぐれないようにしっぽを銀の紐で結んで、川に飛び込んだのでした。魚座は「双魚宮」で、2尾の魚の姿をしています。
「身を脅かすものから自由になる」という神話ですが、一方でしっぽとしっぽが「結びつけられている」のが面白いところだなと思います。どこに向かうか分からない「もう一人」に「縛られている」わけで、この形状はあまり、「自由」とは言えません。

でも、私は思うのですが、「何者にも縛られていない」とき、人間は本当に「自由」なのでしょうか。何の縛りもなく、決め事もなく、つながりもないとき、私たちは心から自由だと思えるものなのでしょうか。どうも、そうでもないような気がします。
私たちはどちらかと言えば、自分を縛るようなものを探し求め、どこかに自分を縛り付けておきたいと願っているようです。就職、進学、友情、家を持つこと、結婚、出産、等々、思いのままにはならないものたちに、私たちは自分自身を縛り付けます。自分を縛り付ける対象が見つからないとき、私たちは強い不安や苦悩、孤独、「生きづらさ」などを味わいます。
思うに、私たちは「自分の分身」と思えるような存在や場と、長い鎖で結びあった時はじめて、人生の自由を感じ、自分の旅ができるものなのかもしれません。

いかに「自分の分身」のような存在であったとしても、相手は自分の意のままにはなりません。しっぽ同士を結ばれて、アタマは別々の方を向いている図に、そのことが現れています。相手が自分と同じような存在であり、かつ、自分の意のままにはならない。そうしたものとのどうしようもない繋がりを得て初めて、私たちの精神は解放されるということなのでしょうか。
二匹のしっぽを縛る不思議な紐は、私たちの「自由」の秘密を示しているように思われるのです。

射手座も魚座も、宗教と関係が深い世界とされます。古い時代には旅と言えば「巡礼の旅」を意味しました。また、多くの人々が知恵ある人や書物をもとめて、学ぶための旅を敢行しました。現代においても旅は決して安全なものとは限りませんが、古い時代における旅はまさに、命がけのものでした。盗賊にあったり、迷ったり、路銀が足りなくなったり、悪天候に苦しんだり、病に侵されたり。そんな危険を冒してまで旅に出る「理由」は、なにか大きな使命でなければなりません。宗教的な救済、あるいは偉大な知恵。そうしたものを求めて、人々は必死に旅をしたのです。ゆえに、宗教と旅は、切っても切れないテーマとなっているわけです。

しばしば、人生は旅にたとえられます。私たちはいったい、何を求めてこの人生という旅を歩き続けるのか。そうした疑問を抱いたことのある人も少なくないはずです。私にもその答えは未だ、みつかっていませんが、木星という陽気な旅の星は、「歩き続けていれば、なにかが見つかるかもしれない」という不思議な希望をくれます。幸福の星が旅の星である、というそのこと自体が、胸の中で、お守りのように輝くのです。


(※次回 「土星 - 山羊座と水瓶座の星」は9月中に更新予定です。)