12星座の話-その14:魚座


前回が「水瓶座」でした。その次が12星座の最後、魚座です。

水瓶座の前、山羊座の段階で「社会的存在」としての自分と、自分の住む世界を確立しました。
すると、今度はそこから「個人」としての自分を彫り出したくなり、水瓶座の世界に飛び出していきました。
「自分」という個人が、世界のあらゆるノードと公平に関わる、そのネットワークが、水瓶座の世界で生み出されました。
そこで、「個人」としての自分は、一体どこに向い、どこにたどり着くべきなのか、という究極の問いが生じました。

魚座は、その問いかけの向こう側にある星座です。

「なんのために」。
そこをじっとみつめると、何も見えません。
でも、他のものを見つめていると、目の端にちらりとなにかが動いて、「何かある」ような気がするのです。
微かな星の姿を捉えようとして、その星を凝視しても、星の光はかすんで消えてしまいます。でも、星から目線を少し話すと、視界の端で、さっき見失った星がきらめきます。
「なんのために」。
それは、たしかにあるのです。
それがなければ、他のものが生起しようがないからです。
それをじっと見つめてたしかめようとすると、見えなくなります。
なのに視線を少しずらすと、ふたたび、たちあらわれます。
魚座は、たとえば、そんなものを象徴する星座です。

魚座について私はしばしば、「境界越え」という言葉を使います。

国と国、家と家、社会と社会、会社と会社、個人と個人、利害や階級など、さまざまな線やものさしで、私たちは「切り分け」られています。
切り分けられて、それぞれに名前をつけられます。
名前は、ものとものとを「区別」します。区分けし、分かれさせ、切り離すのが「名前」です。
「インディヴィジュアル(個人)」という言葉があります。これは「もうそれ以上切り分けることができない」ということです。

魚座は、そうした「切り分け」で生まれた溝や空隙を、「まるで目に入らないかのように、簡単に越えていく力」をつかさどる世界なのです。

ある、小さな食堂の主人がありました。
その食堂は大変おいしかったので繁盛し、主人は息子にのれん分けをして支店をつくりました。味が評判になりどんどん儲かり、弟子もたくさんはいってきたので支店を増やしていきました。食堂の店主は企業の経営者になりました。事業を拡大し、社員を守っていくのが彼の使命となりました。
すると、ある大手外食企業がこの会社に目をつけ、買収の話を持ってきました。食堂の店主だった社長は自分の株をその会社に売却し、多額のお金を得て、自分は経営から退きました。

手の中にたくさんのお金がある。このお金はいったい何だろう、これを得るために、自分は一体何をしたのだろう、と、元店主であり、元社長であった彼は考えました。
自分の「行為」の対価だとするには、ちょっとおかしな感じがしたのです。
よくよく考えた末「これは、社会から預かったお金だから、社会のために使おう」というふうに腹が決まりました。
「社会のためになる」使い道については、またよく考えなければなりませんが、ひとまず、そういうつもりになったとき、気持ちが落ち着いたのでした。

これは単なるたとえ話です。

彼が「社会のために」と考えた、その「社会」は、「人々」でできています。
彼のお金は「人々のため」に使われる、というイメージです。
「社会=人々」というイメージは、個々の個性を指すわけではありません。
たとえば「この人は才能があってこういう個性がある、だからこの人にお金をあげよう」「この人が美しくて好きだから、この人にお金をあげよう」ということではありません。「このお金を社会の、多くの人々のために役立てよう」というとき、「多くの人々」は、だれでも分け隔てなく、どの人でも同じように「人々」です。

「誰かの役に立ちたい」と言った場合、この「誰か」はまちがいなく、「誰でもイイ」のです。隔てがありません。匿名です。だれでもいっしょです。このひとはたすけるけどこのひとはたすけない、ということはありません。AさんだろうがBさんだろうが、誰か自分以外の人のためになればそれでいいのです。

名前と名前、個と個。
そういうものを全く無視したところに成り立つ「価値」がある。
そのような思想が「人の役に立ちたい」です。
自分も「人」であるわけですから、自分にも「誰かに役に立ってもらう価値がある」ということになります。
その「価値」には、隔てがありません。
才能や能力や財産や見た目の美しさなどは全く関係がありません。
「誰かの役に立ちたい」といったとき、そこでは、「誰か」の名前は消え去ってしまうのです。「誰か」の個別性は消滅するのです。

魚座の取り扱うテーマは、宗教、犠牲、癒し、過去、海、涙、などです。
最も美しいものと最も悲しいものの境目に、魚座という星座があります。
心の動きそのもの、「誰かの役に立ちたい」という発想のオオモトにあるなにかが魚座の管轄です。

水瓶座の段階で「私は私である」と、組織から自分を切り離したときに「じゃあ『自分』とは何だろう」と、つきつめていくと、いつかからっぽの器に行き着きます。

その空っぽの器はしかし、空っぽではなかったのです。
なみなみと注がれているのは、誰もが持っているあるひとつのものでした。
それは、人と人とを隔て、個を区別する眼差しからは、見て取れないのです。

たとえば、ある種の宗教の世界では、だれもが「おなじ」です。
たとえば「みんな神の子」という言い方をします。一切衆生、という言い方をします。勉強がよくできる子だけ助けるよ、とか、一番美人の子を選ぶよ、などということは、こうした宗教の場では、けっして行われません。そこには「個別性を際立たせたり個性を打ち出したりするのがいい」という価値観は、どこにもありません。
一様で、均質です。
でも、その価値は絶対的で、揺るぎがありません。

論理の「理」は、「ことわり」です。
「ことわり」、「事割り」「断り」。
きりわけ、名前を付け、分類し、体系化する、といったやりかたは、魚座の世界にはあまり、あてはまりません。魚座の星のもとに生まれた人がこうしたことが苦手だ、というわけではないのですが、こうした作業をする場合には、「その先」にもっと大きな融合や統合のヴィジョンが見えているからだろうと思います。もともと混然として一体である世界を小さくパンのようにちぎって「何かがあるように見せる」ことの嘘に、魚座という世界はとても敏感であるようです。

魚座の星のもとに生まれた人々は、物事の本質を大切にします。
枝葉にこだわりません。
切り分けなければならない、という感覚が少ない人が多いです。
感情が揺れると、その感情にどっぷりはまりこめます。飲み込まれても、また戻ってこられるからです。
魚座の人の特徴は「こういう傾向があります」というふうにはなかなか言えないところです。
とても頑固な人もいれば、自分の意見を一切持たないように見える人もいます。物事の判断基準に一貫性がないように見えたり、細かいことにうるさいのかと思ったら、意外なほど大雑把だったりします。
これは、あやふやさや不安定さ、デタラメさを意味しているのではありません。
魚座の人は、ある自分なりの価値観を持っているのですが、その価値観は、「ことわり」の世界のものではないのです。

もちろん、他の星座の人々と同様に、魚座の星に生まれた人々の中にも、価値観が非常に幼い状態の人もありますし、その認識が誤謬に満ちていることもあります。
ただ、魚座の人々の「価値観」は限りなくやわらかいので、経験や努力によって、粘土のように自在に形を変えるのです。経験を重ね、思考を重ね、努力し、自分で自分を成長させた魚座の人々は、素晴らしい包容力と「融通無碍」の感性を身につけます。
どんな込み入った事情の人にもふわりと反応出来たり、非常に抽象的で難解な哲学や数学をすらりと理解したり、深い悲しみと傷を負った人に、勇敢により添ったり、全く違ったカルチャーの人と自由に接したりできるようになります。
人と相対するときには、相手の心が自然に開いてしまいます。
人以外の、動物や理論やあらゆるものも、自然に心を開いてしまうような、そんな力を持つようになります。

人間は、悲しいときも嬉しいときも涙を流します。
「感動した」というのは、明るい気持ちとも暗い気持ちともつかない、善し悪しの定義が不能な言い方です。サスペンスにも悲劇にも喜劇にもハッピーエンドのラブコメにも、私たちは同様に「感動する」ことができます。

日本の古い言葉では、「かなし」というのは「愛し」「哀し」です。
なにかをこころからいとしいとおもうとき、その胸は悲しみや痛みに似た感覚で満ちています。言葉の上では区別されることでも、心の中では区別がつかないこともたくさんあります。

「区別は人間の頭がしていることで、その区別は、ある場では機能するが、他の場では役に立たない」ということが、魚座の世界の前提です。
あらゆるルール、あらゆる境界線、あらゆる名前は、あくまで人間が、自分たちの生活をやりやすくするために、便宜上こしらえたものです。
「○○でなければならない」というのは、かならず、それが通用する場が限定されます。
どの社会でも禁じられているはずの「殺人」も、死刑執行や戦争の場では法の下に行われる正義です。絶対的な「ルール」など、どこにもありません。

かつて有用だった「ルール」も、時代が変われば不要になることがあります。
「ルール」が不要になった場合は、いち早く撤去するに限ります。
それが不要なのか必要なのかを判断するための「価値観」が、魚座を貫く「価値観」です。
名前やルールで判断しているのではないために、一見、かれらはデタラメに見えるのです。

「アイデンティティ」という言葉があります。「自己同一性」等と訳されます。
人はいろいろなもので自分を「アイデンティファイ」しています。
仕事や家族や学歴や会社の看板、思想、民族、ルーツ、人間関係、結婚相手や財産、国籍、歴史、敵対者、仲間。中には有名人の知り合いである、ということでアイデンティティを確立している人さえいます。
魚座の「境界越え」とは、こういうものを全部無視してしまうことができる力です。
アイデンティティのすべてを取っ払っても「まだそこにあるもの」があるのです。とはいえ、そこまでたどり着けるひともなかなかいません。
ただ、本質的には、魚座はそういう世界なのです。

人間が人間として生きるとき、その根源にあるものに価値を置く。それは誰もが一様に持っているもので、差別は一切ない。みんな一様に価値ある人間であって、この価値観から見れば、誰もが「おなじ」なのだ。
誰もがおなじ世界。
それは、いわば、死の世界です。

生命の世界は、多様で、複雑で、動力に満ち、みんなが「個」としての命を生かすことに、個別に必死になります。競争し、戦い、奪い合います。
それが生命の世界です。
生命の世界は矛盾や痛みに満ちています。
でも、同時に、美しさも存在します。
もしこの「美しさ」だけを抽出したなら、そこには魚座の世界ができあがります。「個」が意味を失い、時間が止まります。

「ちがい」を生み出すものは、「おなじ」のなかにある力です。
「自分と他人とは違う!」と言い張りたいのは、自分も他人も同じようなものであると発見しかけてしまった時です。十把一からげに扱われかけた時です。
一方「自分もみんなと同じだ!」と言いたくなるのは、差別され、排除された時です。

全てが完全に均質に解け合おうとしたその瞬間、生命の本来の力が「ちがう」とささやきます。この均質性に完全に飲み込まれてしまうわけにはいかない、と叫び始めます。
魚座の均質な世界の中に、不思議な結晶のような、純粋な意志が生まれます。そこから、新しい「個」としての旅が再スタートします。

この、均質な死の世界から純粋な生命の世界への全力の脱出が、魚座から牡羊座への飛躍です。

これで、この12星座のお話は、また「ふりだし」にもどるのです。



(「筋トレ」メールマガジン(2007/4/28号)より改稿)