12星座の話-その11:射手座


射手座の前は蠍座、その前は天秤座でした。

天秤座のテーマは端的に言って「契約」です。
お互いの距離を定義し、名前を付けます。
契約の前には争いが必要なこともありますし、結婚もひとつの契約です。
1対1の関わりを考え、それを「決める」のが、天秤座なのです。

その次の蠍座では、「契約」の向こう側にあることに焦点が当たります。
おとぎ話は「お姫様と王子様は結婚し、末永く幸せに暮らしましたとさ」で終わりますが、現実の人生はそうはいきません。
関係を「定義」したあとにくるもの、それは、1対1の世界で否応なく私たちを襲う「例外処理」です。
たとえば、結婚といっても、夫婦関係は千差万別です。
すべて「個別の事情」があり、当事者にしか解らない深いやりとりが発生します。人と人とは絶望的に理解し合えない溝で隔てられていますが、一方で、不思議と相手の中まで入り込んで融け合ってしまうこともあります。
入り込む、というよりもむしろ、2人の人間が関わったときに、それを包み込む独自の宇宙ができあがる、ということなのかもしれません。
この、蠍座の「宇宙」は、1対1の関係に限定されています。密閉されている、と言ってもいいかもしれません。

たとえば、蠍座が扱うテーマとして有名なのが、性や死です。
性も死も、個人とそれに密接に関わる人の範囲に限定されていて、外の世界からみることはできません。
1対1の契約、そして、そこで起こること。ひとつの関係にふさわしいことが、他の関係については、あてはまりません。ある夫婦にとって当たり前のことが、他の夫婦には想像もつかないことだったりします。

そのような「密閉」された世界では、大きな矛盾や苦悩が全く解決されないまま、無限に増幅していくことがあります。たとえば「共依存」などはその典型です。DV、モラハラ、いわゆる「毒親」のようなことなど、当事者達にとっては「何がおかしいのか解らないが、苦しい」という状態がずっと続いていきます。もとい、「おかしい」と感じることもなく「これが普通なのだ」と感じている場合も多いようです。密閉されているがゆえに、いびつな状態がずっと「保たれて」しまうのです。

一般に、全ての立場には、それぞれ固有の利害があります。
ですから、利害を主張するときは、基本的には両者とも「正しい」はずです。
それを整理して契約を行う、というところまでが、天秤座の世界観です。そのあとにくる蠍座の世界では、契約というルールの中で補足しきれないなにごとかが展開します。

射手座は「法律」を扱う星座、とされます。
たとえば「契約書」では、たいてい最後に、裁判所の話が出てきます。
「この契約書の内容で解決のつかないことがあれば、裁判所にいって話しましょう」
と書いてあるのです。
このくだりは、天秤座から射手座への流れをとても良く表しています。

まず契約をするのが天秤座の段階です。
1対1で話し合って、お互いの責任や義務を決めます。

そこで実際に「いっしょにやってみる」のが蠍座の段階です。
ここでは、想像以上に素敵なことや、想像以上に大変なことが、たくさん出てきます。
実際、天秤座の段階では「想像」で決める部分が多いのです。観念で決定したことが、現実についてこない、というのは、よくある話です。

そこで「法律」、つまり射手座の段階がやってきます。

1対1の関係では、お互いの言い分に差はありません。「頭に来たから殴った」でもいいのです。殴られた側が「殴られてもいいです。ガマンします」と認めれば、誰も何も言えません。何が正しくて何がダメかは、2人の間だけで決めることができます。

でも、
「相手の主張が頭に来たから殴った」
「殴られるのはイヤだし、主張も曲げない」
というケンカが起こったときは「平行線」になってしまいます。

このとき、私たちははじめて「善とはなにか、悪とはなにか」を考えなければならなくなります。

お互いの主張のウチ、どちらが「正しい」のでしょう。
この「正しさ」は、2人の間だけでなく、他の誰からみても「正しい」のでなければなりません。
ここで、もうひとつの立場が登場します。
それが「第三者」です。
そこには、関係性から決まることではない「普遍的価値」が生まれます。

これが、射手座が法律を扱う星座であり、かつ、旅と哲学を扱う星座である所以です。
射手座は未知なる「第三者」のひしめく世界へと出ていく冒険者の世界です。そこには、様々な価値観とバックグラウンドの持ち主がいて、簡単には対話が成立しません。
でも、射手座的な精神は、対話を試みます。そして、スケールの大きなコミュニケーションを生み出します。

牡羊座から蠍座までの旅を経て、射手座で初めて「社会」「世界」が出てくる、というイメージを私は持っています。射手座に象徴されるものはほかの星座同様、たくさんありますが、その中に「大動物」というのがあります。昔は、大きな動物は交通手段でした。馬や牛、ラクダや象などを使って、人々は自分の足では移動しえない長い長い距離を移動し、「新しい世界」を探しに出かけたのです。

人類のルーツについてはさまざまな説があるそうですが、一般に、いくつかの個所で発生した人類は、やがて長い長い旅をして世界中に散らばっていった、と言われます。海を渡り、山を越えて、あらゆる危険を冒しながらそんなにも遠くへ行かなければいけない理由は、なんだったのでしょうか。射手座の世界には、その秘密が隠されているのかもしれません。

1対1で完結する、天秤座から射手座への世界。そこはひとつの完璧なユートピアです。ですが同時に、そこではなにかが自滅していきます。お互いに分かり合えている、その関係の中に「居続ける」ことを、なぜか、人間は好まないようです。同質化した世界からやがて離れ、新しい世界を求めて、飛び出していきたくなるのです。

人は、「個」です。
「個」は、誰かとコミュニケーションし、接触し、深くふれあいたい、という欲求を常に抱えています。
でも、同時に、ふれあいのなかで「個」としての存在意義が飲み込まれそうになると、一目散に「個」としての手応えを取り戻そうとします。
融合し、分離し、また融合する。
これが、星占いの12星座で交互に、鎖輪のように繰り返されていくイメージです。

天秤座で分離した2人は、蠍座で深く融合し、命の一部を取り交わします。ですがそこで、あわや一体になってしまいそうだ!となった瞬間、死が目の前にやってきます。
蠍座から射手座へのジャンプは、文字通り「再生」を意味します。
蠍座の融合は、非常に真剣で、深く、命をいったん他のものに差し出してしまうほどのエクスタシーを実現します。それを体験した上で尚「生きる」ことを取り戻すために、射手座に戻ってくるのです。

それは、牡羊座のように記憶のないジャンプではありません。
射手座は全てを記憶しています。
それが、射手座の知の世界です。

射手座は知的な星座とされます。射手座の知性は、とてもオープンでさわやかです。何でも分け隔てなく吸収し、楽しむことができます。まるで生まれたばかりのような無垢な心は、権威やラベルに縛られることがありません。哲学でも天文学でも法学でも占いでも、射手座の世界では全くシームレスなのです。どれが偉くてどれが低俗、といった格付けは行われません。常に、そのものの中にあるすばらしさを探して旅をします。タイクツすることさえ、探検の一種です。

私は以前、「太陽と月のモニター企画」というのを企画しました。
月齢に関するアンケートをお願いしようと思い、筋トレのユーザ様に参加募集したのです。蓋を開けてみたところ、最初の10名様ほどのなかのほとんどは、射手座の男性でした!
それ以降、他の星座では男性はほんの少ししか参加して頂けませんでした。
つまり、射手座の男性は、ほかのどの星座の女性よりも早く、他のどの星座の男性よりも多く、応募してくださったのです。

一般的に、星占いに興味を持つのは、圧倒的に女性が多いのです。
もちろん、男性もけっこう気にしている、というハナシはちょくちょく耳にしますし、ウチのサイトのユーザ様には比較的男性比率が高いなと思っていますが、しかし、女性を上回る、ということはありません。
ゆえに、射手座の男性達の反応には本当に驚かされました。私があのアンケートで一番驚いたのはそのことだったかもしれません(爆

双子座や乙女座も知性に関わりの深い星座ですが、そこでは、理解や情報、学習といった言葉が似合います。
射手座の世界では、それは叡智とか哲学とか真理とかいった言葉に変化します。

牡羊座から獅子座までで「個」ができあがり、乙女座から蠍座までで「1対1」が実現しました。そして、射手座の世界では、とうとう、たくさんの人が住む広い世界、社会に旅に出ることになりました。
この過程で、必要な情報やルール、「知」のありかたはどんどん変化していきます。
射手座における「ルール」は、価値観やバックグラウンドが違っている者同士が共有できる「ルール」です。
2人の人間が相談して作る、2人だけの「ルール」ではなく、どこに行っても誰と関わっても通用する「ルール」とはなにか。
後者のような「ルール」は、細部を決める必要はありません。細かいところは違っていて当たり前です。
本当に解っていなければならないのは「絶対に間違ってはいけない、 世界のどこに行っても、誰にでも通用するルール」です。
射手座の人はオープンでフランクだ、といわれます。細かいことにこだわらない大雑把な人が多い、といわれます。
「契約」では、細かいことまで具体的に決めなければなりませんが、「憲法」や「宗教」では、そうではありません。「本質的にまちがってはいけないこと」だけおさえておけば、細かいことはあとから考えられます。そういうルールでなければ、お互いに違いあった者同士での共有がむずかしいはずです。
射手座の星のもとに生まれた人々が「大技を見事に決めた後で小さくコケる」というコケ芸を持っているのは、そういうところに起因しているのかもしれません。

星占いの世界では「出かけていって学ぶこと」と、「知を送ってもらうこと」は同じことです。ですから、旅を扱う星座と知を扱う星座は、同じ星座です。
射手座のもとにうまれた人々は、旅もしますし本も読みます。船に乗るのが自分か文物か、は、大した違いではありません。要は、何らかのカタチで距離が縮まればいいのです。

三蔵法師の旅は、経典を求める知の旅でした。今と違って昔は、書物を求める人々は巡礼者のように、寺院を移動していきました。射手座のテーマとして「出版・書物」と「旅」が併記されるのは、当然のことだったわけです。

長い距離を飛び越えるために、射手座の人々はスピードに恵まれています。双子座も旅する星座ですが、近距離を飛び回るので、靴に翼が生えている程度でOKです。
一方、射手座は大動物に乗り、帆船に乗ります。もっと遠くへ行かなければならないからです。自分の生まれ育ったところとは違う場所に行き「たったひとつ、どこにいっても通用する真理」を、静かな眼差しで見いだそうします。

火のような情熱、そして、広く物事を見定める寛容。
スポーツマンのスピードと躍動、哲学者の透徹。
2つの力が、射手座に独特のリズムを生み出します。

広く旅する、普遍的な知の世界。この世界をずっと歩いていくと、なぜかだんだん、息が切れてきます。「バガボンド(放浪者)」という言葉がありますが、放浪し続けているといつか、心に耐え難い穴を見つけてしまうのです。

旅には必ず、最終的な目的地があります。
それは「自宅」の場合もありますし、「新しい王国」の場合もあります。いずれにせよ、それは「場所」です。

飛びだしたものは必ず最後に何らかの「器」を求めます。蓄えた知恵は、それが実現される世界を見いだしたいのです。
根をはる場所をもたない切り花がいつか枯れるように、蠍座という泥を飛び出した射手座の生命力は、世界を知れば知るほど、目的地を見失ってしまいます。
仙人は山の上で悟り、そのあと、牛を引いて里に下りていくことが「必要に」なるのです。

そこで、また「ジャンプ」が起こります。
目的地。それは、山羊座の世界です。


(「筋トレ」メールマガジン(2007/1/30号)より、改稿)