「月」のメモ。


以下、「今日(あした)の占い」で、2019/1/21の月食がらみの話を書いていたら、なんだか長くなりすぎたのでこちらに移動。

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月についてはいろいろな議論がある。
それが「実は隠された本質だ」というような話の一方で、「月はあくまでサブの役割である」とか「媒介者である」みたいな話もある。
いずれにしても、月の「面倒くささ・やっかいさ」ということがあるんだろう。


目の上のたんこぶ、決していなくならない自分、持って生まれたものや変わりやすいもの、逃げたくても決して逃げられないし否定もできない、このやわらかなもの。日常の時間、日常の感触。
何者かになりたくて、功(いさおし)のようなものに憧れ続ける人々にとっては、月は背後に置き去りにしたいようなものなんだろう。
でも、それは決して「置き去り」にできなくて、ずっとそばについてくる。無視しても、向き合っても、それはそこにいなくて、そこにありつづける。
月を抱きしめて月を自分のなかにのみこんでしまって、飲み込みきったと思った瞬間、月はいつのまにかまた、なぜか後ろにいる。

たとえば月はアイデンティティ自体ではなくて、アイデンティティを「欲しい」とねがう、そのきもちだ。
だからそこをみつめてもなにもでてこないけれど、そこがなければそもそも、なにもない、ということになる。
アイデンティティがちゃんとあるように思えているあいだは、月は姿を隠している。アイデンティティが失われようとするとき、「月自体」の幻影がうかびあがる。

どこに帰ればいいか本当にわからなくなるまで、私たちは切実に「どこかに帰りたい」とは思わないのだ。だがそう思えるときにはもう「帰るべきどこか」は、この世に存在していない。

「そこにそれがちゃんとあるときには当人にはほぼ、意識することができなくて、それを引きはがそうとしたとき初めてその概念自体が立ち現れ、立ち現れた瞬間、もとのありようから引きはがされたことにより命を失って消滅する」というような不思議な概念が、この世の中には、けっこうたくさんある、ような気がする。
その一例が、処女性である。月の女神は、処女神アルテミスである。

月は「アイデンティティの裏側」にある。たとえばそういう言い方ができるんじゃないかと、最近思っている。