12星座の話-その13:水瓶座

前回は「山羊座」でした。
今回は、その次の「水瓶座」です。

射手座で旅に出て、山羊座で帰ってきて王国を作りました。そこにはたくさんの人が住み、ひとつのまとまった社会を形成しています。この「社会」は、様々なルールや力関係によって、とても安定的に運営される「場」です。
この「場」の中ではみんながほどほどに安心していて幸福です。守られていて、その居場所が保証されます。細かいトラブルや利害関係はその都度、ルールや取り決めによって調整されます。そのため、ルールは少しずつ増えながら、守られていきます。

守られ、保たれる。
このことが生み出すパワーは、それ自体で一人歩きをし始めることがあります。
会社組織などをイメージするとわかりやすいのですが、黎明期は活気であふれ、新しい意識やエネルギーに満ちています。それが次第に成長し、成熟すると、徐々に余裕が出てきて、安定し、規模を拡大していきます。
そのうち、だんだんとその組織が年齢を重ねるにつれ「疲弊」が現れてきます。昔は斬新で、社会的な競争力を持っていた仕組みやルールが、時代を重ねるにつれてだんだんと弱くなり、形骸化し、力を失っていくのです。

ですが「保つ」「守る」力はとても強力に人の心を支配するため、本質的な力を失ったものでも、なかなか壊すことは難しいのです。旧態依然とした組織構造を壊すことができずに矛盾を膨らませ、いつしか組織自体が中から腐ってくずおれてしまう様子を、しばしば、ニュースなどで目にします。

人間同士が集まって、みんなで住める大きくて安全な「お城」を造る。
最初は「そこに住む人間のためのお城」だったのが、いつのまにか「そのお城を守るための人間」にすりかわってしまう。こんな矛盾した出来事が、人間社会では不思議と、よく起こります。

山羊座の世界に象徴されるこうした硬直性から、ぽん!と飛び出すのが、水瓶座の世界です。
水瓶座は、ユニークで、知的で、新規性があって、批判精神に富む、といわれます。
このことは、上記の「組織」をイメージするとよくわかります。
古いシステムが時代に合わなくなったとき、その組織の中から異端児が現れます。あるいは、外部から新しい感性を持った役員を引き入れます。新しい風を入れて組織を変えてしまうことで、組織の命をよみがえらせようとするわけです。

これらの「新しい人」たちは、すでにいる内部の人とは違った考え方をします。
習慣やルールを「絶対的前提」とせず、無視したり削除したりします。過去に機能していたモノでも、今役に立たなければ、すっきりとお払い箱にします。

山羊座の中の「生き延びるために守ろう、保とう、実現させよう」とする力は、水瓶座の中では「ゼロから考え直して組み立てよう」とする力によって破壊されるのです。

水瓶座は「集団」を「個人」から考える星座です。
あくまで広い世界や社会を見渡しているのですが、そこには「個人」が絶対的に尊重されています。ともすれば「全員が生き残る」ために「城」のほうが優先される山羊座の世界とは、とても対照的です。
個人が不幸になるくらいなら、城は要らない。
それほどの「個」にもとづいたラディカルさが、水瓶座の世界にはあるのです。
一人一人が自由で、自分の意志によって立ち、その上で、「みんな」が幸せになれる場。水瓶座は「組織」というパワーのヒエラルキーではものを見ません。あくまで「個人」同士で成り立った「ネットワーク」を意識します。そこでは一人一人がハッキリと尊重され、切り離され、めいっぱい我が儘を言っていい世界なのです。自由に振る舞い、他人のために自分の節を曲げる必要などありません。

水瓶座生まれの人々は「不思議ちゃん」といわれることがありますが、よくよく話を聞いてみると、リクツのないことは考えていません。ちゃんとリクツのスジは通っています。
ものごとを「仕組み」でとらえる感性が、水瓶座の世界にはすうっと通っています。
どれとどれがどう関連して、全体が動くようになるのか。それを透徹した眼でみつめているために、慣習や常識、文化というような場に生きている人から見て「ちょっとヘン」と思われる事が多いようです。
水瓶座の星の元に生まれた人々の心はとても自立していて、凛とした緊張感に満ちています。一方で、他者に対して惜しみなく力を分け与える、親身な面も持ち合わせています。
「個人」は「個人」で絶対的ですが、同時に、人間が一人では生きていけないことを、水瓶座は熟知しています。

12星座、牡羊座から始まった旅のなかで、人間がどれほど他者と深く関わって生きていて、どれほど「社会的存在」であるか、ということが、水瓶座の段階では、ほんとうに深く理解された状態になっています。ですから、個人主義といっても、それは博愛や相互理解、協力や共同作業を前提とした個人主義なのです。

「ひとりぼっち」が「個人」ではありません。あくまで、他者でいっぱいの「この世界」に属する「個人」です。水瓶座の世界の「個人」は、「社会」の中にいるのです。

自分の頭で考え、自分の足で立つ。
その上で、人と手を結ぶ。
この、自由さと親愛が、水瓶座の「理性」の土台になっています。

フラットなネットワークが広がり、状況によって切れたりつながったりします。なにより、つながりを保つための人間ではなく、人間のためのつながりを作り出そうとすることが、水瓶座の理想なのです。

水瓶座の世界では「人」は、個別に切り離されています。個人はみんなユニークで、別々の存在です。その人の内側に立ち入ることはできません。

この世界で生きていくといつか、不思議なものがじわじわとわきあがってきます。
それは、疲労と、倦怠です。ある種のシニスムです。

牡羊座からこの水瓶座までの道のりを考えなおしてみます。
生まれてきて、快不快を感じ、人と交わって自分を見つけ出し、居場所を得て、自己主張をはじめ、人と関わる中で自分を変化させ、信頼関係を結び、時に自分を分け与え、人からも貴重な物を受け取り、遠い世界に旅をし、確固たる城を築き、更にそこから飛び出して自由になった・・・
この自由こそが「ゴール」なのか。

「自分」と、それをとりまく「他者」による「社会」という仕組みが、水瓶座の世界では見えています。
でもそこで、途方に暮れるのです。
自分という個人、それはいったいどこにたどり着くのだろう。
ひとはひと、自分は自分。
いくら友人を持っていても、何が見えていても、「個人」である自分は、何をゴールとすべきなのでしょう。

水瓶座は「自由」の星座です。
ですが、完全な自由を得たとき、私たちは、いったいどこに行けばいいのでしょうか。

「自分」を知りたくて「自分」を見つめても、たいていは、何も見えてきません。「自由」はまるで虚空のようで、それを見つめている時、自分が何を見つめているのかも、よくわからなくなってきます。

たくさん人がいれば、さびしくないか、というと、そうでもない、ということを、多くの人が経験しています。たくさんの人に囲まれているのに、皆仲がいいのに、なぜか、胸の中を貫かれるような怖ろしい孤独を感じることがあります。
人口の少ない田舎で孤独を感じる人もいれば、人がもみ合うように暮らす都会で、痛烈な孤独を感じる人もいます。大きな連帯の中で暮らしていても、どんなにたくさん友達がいても、孤独の中で苦しんでいる、という不思議な現象を、多くの人が経験しています。

私たちは自由を愛し、個人として生き、何にも縛られることなく、自分の人生を自分のものとすることができたとして。
あらゆる重力から離脱することができたとして。

そして、その上で、果たして、どこへ向かうのか。

水瓶座の世界は、そういうところで行き詰まります。
この行き詰まりから、魚座への飛躍が起こります。


(「筋トレ」メールマガジン(2007/3/29号)より改稿)