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「憂鬱朝倉さん(とキョン)の憂鬱」(『精読・涼宮ハルヒの消失』アペンディックス:02)

※著者注:この原稿は2022年3月上旬に書いたきり下書き状態で保存されていたものになります。書きさしの原稿なのですが、非公開のままにしておくのももったいないので今回公開することにしました。途中までの原稿であり、この後執筆された他の『精読』シリーズの内容と重複する部分もありますが、それらをご了解の上でお楽しみいただけましたら幸いです。

 この記事はハルヒシリーズ考察本『精読・涼宮ハルヒの消失』を読んだ方向けのハルヒ考察記事です。同書未読かつご関心に適う方はまずは下記リンクをぜひご覧ください。

 また、この記事は下記の記事の続きです。単独でも読めますがもし面白かったらこちらもどうぞ。

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『憂鬱』での朝倉さん


 前回の記事では『消失』における朝倉さんの一面について触れましたが、そもそも朝倉さんというキャラクターはどんなキャラクターなのでしょう。ここでは改めて彼女の作中での存在意義について考えてみたいと思います。

 彼女が登場するエピソードは意外と少なく、おおよそ『憂鬱』『消失』『陰謀』『驚愕(前)』『驚愕(後)』の5編のみです(うち『驚愕(後)』ではセリフ無し)。今回は『憂鬱』での彼女について考察します。

 『精読・憂鬱』に書いた通り、『憂鬱』は元々1話で完結した物語になっており、主人公であるキョンとハルヒの描写にウエイトの多くが割り振られた内容になっています。古泉くんや長門、みくるちゃんもそれなりに魅力的に描かれてはいるのですが、ザックリと言ってしまうと「ハルヒに巻き込まれた一般高校生かと思いきや実は宇宙人/未来人/超能力者でした」という舞台装置としての機能が主のように思われます(なお、古泉くんについては例外的に超能力者になる過程やハルヒの新世界創造をして「ちょっとホッとしているんですよ、僕は」(『憂鬱』,275p)と漏らすなど人間的な内面らしきものも描かれています。2006年の谷川先生へのインタビューによると初期案ではキョンも超能力者だったそうなので、同じ陣営だった分みくるちゃんや長門より深めのキャラ設定がされていたのかもしれません)。

 「キョンとハルヒ以外の描写は希薄」ということは朝倉さんについても同様で、概していえば「クラスの美人委員長だと思ったら殺人エイリアンでした」というのが『憂鬱』における朝倉さんのキャラクターのほぼ全てであり、深い内面を匂わせるような人間的な描写はほとんどありません(人間ではないので妥当ではあるのですが)。

 一方で、『憂鬱』における朝倉さんの存在には「実はエイリアンでした」というひっくり返しの他にもう1つ重要な役割があります。それはハルヒや長門に対するアンチテーゼです。

 『憂鬱』はキョンが高校に入学した4月から5月末までの話ですが、入学直後の時点で

まだ4月だ。この時期、涼宮ハルヒもまだ大人しい頃合いで、つまり俺にとっても心安まる月だった。ハルヒが暴走を開始するにはまだ一カ月弱ほどある。(同、23p)

 とキョンが言っているように、4月初旬の1ヵ月弱後、つまりゴールデンウィーク明けにキョンが話しかけるまでの間、ハルヒはクラスでは大人しい存在だったのです。その後のハルヒはSOS団設立やら何やらで”暴走”しだすわけですが、キョン以外のクラスメイトにとってはハルヒは変わらず教室では大人しくコミュニケーションの希薄な存在だったはずです。これは文芸部部室で本ばかり読んでいる寡黙な長門と相似形で、実際キョンも下記のように述べています。

一人っきりのマンションでこんなSF本を読んでばっかりいるから、長門けったいな妄想に頭を支配されるんだ。どうせ教室でも誰とも話さず自分の殻に閉じこもっているに違いない。本なんか捨てて、表層だけの付き合いでもいいから友達を作って、普通に学園生活を楽しめばいいのだ。(同、126p、強調部分は本記事著者による)

 この「も」とは、つまり「長門もハルヒも」という意味だと読み取れます。つまり続く文章には「どうせ(長門も)教室でも誰とも話さず自分の殻に閉じこもっているに違いない(実際ハルヒがそうだから)。」というニュアンスが含まれています。

 また、「本なんか捨てて」という部分にはキョンの自己投影が読み取れます。というのも、キョンは別の個所で

本は昔よく読んだ。(同、156p)

いつからかな。本を読まなくなったのは。読んでも面白いと思わなくなったのは。(同、157p)

 本というモチーフについてこのように述べているからです。また物語冒頭でも

中学校を卒業する頃には、俺はもうそんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにも慣れていた。(同、7p)

 と言っていることも加味して考えれば、キョンは「俺は高校入学(=物語冒頭時点)を契機にガキな夢を見ることから卒業して本を捨てた。長門もハルヒも自分と同じように本を捨て適当な友達を作って高校生活を普通に送るべきである」と言っているのです。

 要は、長門やハルヒにまともになれと言いつつ、自分のように夢を叶えられないやつは人生の普通さを受け入れ、人付き合いをうまくやっていくしかない、ということを自分に感じているのです。こういったキョンの諦観は高校生活が思ったよりつまらないと愚痴るハルヒに対して言った

「結局のところ、人間はそこにあるもので満足しなければならないのさ。(中略)凡人たる我々は、人生を凡庸に過ごすのが一番であってだな。身分不相応な冒険心なんか出さない方が、」(同、42p~43p)

 このセリフにも現れています。

 つまりキョンは「俺も夢を諦めて普通志向になったんだ、お前も諦めろ」とハルヒに言っていたわけです。しかしこのセリフが逆にハルヒを全然普通じゃない方向に駆り立てたというのが皮肉と言うか、二人の関係の面白いところです。

 一方で、キョンが表面的に理想としている「普通な高校生活」を体現しているのが、朝倉さんその人です。彼女は初登場時の描写からして、ハルヒや長門と対極に位置しています。

「俺だったらそうだな、このクラスでのイチオシはあいつだな、朝倉涼子」谷口がアゴをしゃくって示した先に、女どもの一団が仲むつまじく机をひっつけて談笑している。その中心で明るい笑顔を振りまいているのが朝倉涼子だった。(同、21p)

 同性と仲良くできる、しかもその中心にいる、その上明るい笑顔を振りまいており、女子からだけでなく異性(谷口)からもイチオシと評されている、委員長に就任しクラスの中心人物になる、などなど、美人であるという共通点を除けば、朝倉さんは陰キャであるハルヒ&長門と正反対の学校生活を送る存在、究極の陽キャとして登場しているのです。

 キョンも

いつも眉間にシワ寄せている頭の内部がミステリアスな涼宮ハルヒと比べると、そりゃ彼女にするんならこっちかな、俺だって。(同、22p)

 などと言っています。これは上述のキョンの普通志向を考えれば、全部本心というよりも「普通の女子と普通にお近づきになることで自分も普通になりたい、脱オタしたい」という願望も加味されているように思われます。何故なら、キョンは中学までは、つまり物語の直前である先月までは超能力バトルや悪霊退治を夢見ていたわけですが、そういった夢想の中に恋愛願望的なものは含まれていなかったからです。

 もしキョンの中に非日常的ヒーロー願望に加えて恋愛願望もあったのだとしたら「大活躍してヒロインとイチャコラしたい」的な例が一つくらいあってもよさそうですが、実際キョンが物語冒頭で「ガキな夢」を列挙した部分にはそういった願望はありませんでした。強いて言えば

宇宙人にさらわれてでっかい透明なエンドウ豆のサヤに入れられている少女を救い出したり、(同、6p)

 という箇所に異性の存在が認められますが、この少女というのもどちらかというと中学生男子だったキョンが恋に落ちる相手というよりは、ヒーローとして救い出すべきか弱い存在、くらいのイメージだと思われます(彼に妹がいることもそういったイメージに寄与しているかもしれません)。

 つまりキョンの無意識には「高校生になったら恋愛して彼女を作ったりするもの、それが普通である」という価値観というか強迫観念のようなものがあり、それに従って「彼女にするならあんなタイプだな」と朝倉さんを挙げているに過ぎないと思われるのです(ここで、特に若い方の中には「何故高校になったら恋愛するということが普通ということになるんだ?」と思われる方もいるかもしれません。こういった恋愛至上主義的な考え方は少なくとも80年代~2000年代初頭の学生には割と支配的だったのです。TVドラマも流行歌も恋愛を主題にしたものが中心でした。そして恋愛対象になりづらいいわゆるオタクはその常識外というかそれ以下という扱いを受けていたのでした。『ハルヒ』は時代設定を明らかにしていませんが、そういった時代のロマンチックラブイデオロギーが根底にもあるように思えます)。

 そう考えると、『憂鬱』のキョンはみくるちゃん(大)にキスした方がいいのかなとか思ったりハルヒに彼氏作れと再三言ったりしていたことにも説明がつきます。別にキョンが本当に色ボケした肉食系男子なのではなく、「普通な高校生になるためにはそうした方がいいのかな」という強迫観念に駆られているからこその思考だと考えられるのです。事実、『憂鬱』以降のキョンは上記のような色ボケ発言は少なくなっていきますし(多少はありますが)、彼の中学時代を描いた『Rainy Day』でもクラスメイトの水着姿に目を奪われたり妙な距離感にドギマギしたりはしているものの恋愛に貪欲という感じはありません。

 以上、ハルヒと長門と朝倉さんとキョンの関係を図にするとおおよそ以下のようになります(実際には陰キャとか陽キャといった表現はされていませんからそのものズバリハルヒは陰キャ!というわけではありません。抽象的に捉えていただけると幸いです)。

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 朝倉さんはハルヒや長門と相容れない存在として描かれており、キョンは当初、表面的にはそっちの方が善、善きものとしています。当初は至高の善の具体例とされていた朝倉さんの素性(=こうあるべきという普通の高校生イメージ)が非常に恐ろしいものだと解るとともにキョンの内心は本心であるハルヒと長門の方(=普通じゃなくても自分の嗜好に従って生きること)に振れていく、という構造になっています。

 もっともキョンがハルヒを物語の中心として捉えているのはプロローグから明らかですので、キョンの表面的な態度は最初から本当にフリだけという印象になっています。

 陽キャ性をオタク的なものと置き換えれば『憂鬱』は要するに陽キャ否定・オタク肯定のお話という構造を持っているといえます。『溜息』にはキョンがモデルガンを学校に持ってきた際に

「なんだこりゃ、モデルガン? お前こんな暗い趣味があったのか」
「俺じゃない。ハルヒの趣味だ」
 それから一応フォローしておくが、暗い趣味と言い切るのは間違いだと思うぞ。(『溜息』、57p)

 とそれを匂わせるやり取りもあります。隠れオタクであるキョンは自分が暗い趣味を持っていることを人前では否定しつつ(しかもクラスに馴染めないでいるハルヒに転嫁までしていてズルイ)、内心では普通じゃない趣味の否定に反発しているのです。

 ただし、「涼宮ハルヒシリーズ」では陽キャ、陰キャ、オタクといった直接的な表現は一貫してほぼ無く、単に「そうとも捉えられる」という程度の表現に留めています。これを具体的に書けばより分かり易くなったと思いますし実際そういう作品もありますが(私の知る範囲では『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』『中二病でも恋がしたい!』など)、もし「涼宮ハルヒシリーズ」がこれを明確に打ち出していたら作品の広がりや世界観はぐっと狭いものになっていたはずです。個人的には具体的なことは描かず匂わせるに留めたおかげで普遍性のある作品になったのではないかなと思います。

…と、ここでこの項の筆を置こうと思っていたのですが、あまりに朝倉さんそのものについて触れなさすぎなので、もう少しだけ『憂鬱』における朝倉さんについて述べたいと思います。

(※原稿はここで終わっていました。もし続きを思い出したら改めて書いて公開しようと思います)


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