見出し画像

杉田庄一ノート62 昭和19年5月ペリリュー島進出〜6月『渾作戦』

 263航空隊は、『渾作戦』の支援のためにパラオのペリリュー島に進出する。『渾作戦』はビアク島をめぐる連合国軍と日本軍の争奪戦でたてられた日本側の作戦である。

 ビアク島はニューギニア北西部の島で、東西は約90キロ、南北は約40キロである。日本軍は昭和18年(1943)以降3カ所の飛行場の設営を進めていた。日本軍がビアク島へ配備した兵力は陸軍10,400名、海軍1,947名とある。しかし、大部分が飛行場設営隊や海上輸送隊、開拓勤務隊など後方勤務部隊が占め、戦闘部隊は歩兵第222連隊を中心に、海軍陸戦隊を加えても4,500名に過ぎなかった。南方方面に侵攻が進んだときの後方基地とすべく考えていて、最前線になるとは思っていなかったのだ。

 昭和19年になると戦況がいちじるしく悪化してくるが、大本営では現場から上がってくる高評価の報告をもとに連合軍側にも相当程度の損害を与えており挽回は可能と甘い判断をしていた。連合艦隊および機動艦隊をもって連合軍艦隊を撃滅することができれば(つまり『あ号作戦』)、戦局は転換すると考えていたのだ。しかし、実際には着実に連合国軍の反攻が進められることになる。

 当初、ビアク島は大本営の考える絶対防衛圏構想の外側にあり見捨てられる運命だった。5月28日に連合国軍第一陣がビアク島に上陸する。敵動向に対する南西方面軍の陸海軍合同意見としてビアク島突入の電報を受けた大本営では、ビアク島支援が戦略的価値に見合うかどうかを疑問視していた。戦力の逐次投入で失敗した南東方面作戦と同じ結果になることを恐れていたのだ。しかし、戦略上ビアク島の飛行場は重要であるという阿南中将の意見や『あ号作戦』を進めている中でビアク島は確保をするべきという海軍の主張もあり、流れが変わっていく。結局、ビアク島を守ると同時に敵機動部隊を誘い出して『あ号作戦』と組み合わせるという目的を二つもつことになった。『あ号作戦』は、敵機動部隊を殲滅する連合艦隊の作戦であったが、実際には連合軍の方が先手をとりマリアナを奇襲攻撃する。その翌日に『あ号作戦』はバタバタと発令されることになる。

 連合軍参謀本部は日本へ侵攻する総合計画を昭和18年12月に策定していた。島嶼伝いに前進基地を設けて航空爆撃をもって次第に日本本土へ侵攻していく作戦である。この戦略構想のもとにマッカーサー大将の率いる南西太平洋方面連合軍は、フィリピンへ向かう反攻作戦を推し進める。4月22日ニューギニア島北部のホーランジアを攻略、5月17日サルミへ上陸、そして次はビアク島への上陸が計画されていた。6月中旬には、ニミッツ大将によるサイパン進攻が予定されており、飛行場確保のため連合国軍は攻撃のターゲットをビアク島にむけていたのだ。

 6月2日からの『第一次渾作戦』は、ビアク島支援に向かう日本海軍(戦艦1、重巡洋艦3、軽巡洋艦1、駆逐艦6)と豪米混成軍(重巡洋艦1、軽巡洋艦3、駆逐艦10)が対峙することになる。規模から言えば日本海軍に利があったにもかかわらず、機動部隊が出動したという情報誤認で日本海軍側は、ビアク島へ到達前に作戦を中止し、ニューギニアのソロンに物資と陸軍を揚陸して逃走する。6月7日、主力アメリカ軍がビアク島に上陸する。

 6月8日からの『第二次渾作戦』では、高速の駆逐艦6隻に大発(大型発動艇)を引かせてビアク島への兵員輸送を試みる。しかし、豪米混成軍(重巡洋艦1、軽巡洋艦2、駆逐艦14)による攻撃を受け、ほうほうのていで退避することになる。連合軍側には被害はなく、日本軍側は沈没や損傷など大きな被害があった。

 6月10日からの『第三次渾作戦』は、これまでの作戦失敗から戦艦「大和」「武蔵」をはじめとする重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦による大艦隊を送ることにする。12日にバチャン泊地に集結ということで移動中の6月11日、アメリカ機動部隊によるマリアナ諸島への空襲が始まり、急遽作戦は中止になる。

 この三回の『渾作戦』は、「やることなすこと手遅れ」と言われるように海軍は失態だらけだった。機動部隊ではなく遅動部隊だなどと揶揄された。しかし、ソロン島に置き去りにされた陸軍および海軍陸戦隊は1カ月以上も持ちこたえ、マリアナ海戦まで連合軍に飛行場を使わせない抵抗を続けた。残念ながらマリアナ海戦にはまったく影響を与えることなく、その抵抗は無駄なものになってしまう。ビアク島の戦いでは、日本側の戦死・戦病死者は約1万人以上で生還者は250人しかいない。連合軍側の戦死者は471名であった。また、この『渾作戦』の支援のために投入された日本海軍や日本陸軍の航空戦力は大きなダメージを受けてしまう。そもそも航空決戦で挽回しようとたてられた『あ号作戦』のために再編成された航空戦力であったが、肝心の『あ号作戦』がはじまったときには投入できる航空戦力がなくなっていたのだ。

 話をもどして263航空隊は、5月1日に『渾作戦』支援のためパラオのペリリュー島に進出する。パラオ方面では連合国軍艦載機と連日激しい空中戦が繰り広げられる。敵30機に対して15機で対抗するような数的不利な戦いが続き、隊は次第に消耗していく。『渾作戦』が始まる前だというの5月末には乗るべき零戦が足りなくなり、ニューギニア・ハルマヘラ島カウ基地まで零戦を取りに行くことになる。ハルマヘラの265航空隊では、マラリアとデング熱で搭乗員の大半がダウンしており、危急存亡のときでもあるので、休んでいる零戦を取りに行けと玉井司令から命令が出されたのだ。

 陸攻に乗ってハルマヘラに着くと、連合国側の機動部隊が日本軍の作戦の裏をかいてサイパン方面に向かっているという情報が入り攻撃を命ぜられ、そのまま十数機の零戦でペリリュー島にもどることになる。そして、6月2日に『第一次渾作戦』が発令され、『第二次渾作戦』『第三次渾作戦』『マリアナ海戦』と続いていく。杉田庄一や笠井氏の263航空隊も戦闘に巻き込まれて行く。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?