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杉田庄一ノート14:昭和52年〜「三四三空隊誌」その1笠井さんとの出会い

 紫電改展示館の売店で「343空戦闘記録」が売られている。この資料の中からいくつか興味関心の引かれる情報をひろってみた。

 発刊の言葉は志賀淑雄元飛行長。昭和50年第一回の三四三空搭乗員会が開催され昭和52年に合同慰霊祭を行い会報を作成しようということなったこと、そして昭和54年の愛媛県城辺町久浦湾から紫電改が引き上げられたことを契機に作成されたという経緯が記されている。

 その合同慰霊祭での源田実元司令のあいさつが巻末資料に記載されている。録音から起こしたらしく、途中で源田司令の慟哭をも生々しく伝えている。そして、感極まったところに杉田庄一のエピソードと菅野直と林喜重のエピソードが出てくる。


「昭和52年7月23日 於九段会館懇親会場 源田司令挨拶
 志賀淑雄君始め世話人の方々の非常なご尽力によりまして、本日の慰霊祭が滞りなく施行せられ、またこうしてご遺族を交えて懇親会が開催されることになったことについて、私は三四三空指揮官であったその感慨を込めて皆様に感謝の意を評したいと思います。
  <中略>
 洵(まこと)に私は当時のこの隊員の勇戦奮闘に、全く頭の下がる思いでございます。ところがこうして、本日ご遺族の方々のお顔を・・・・・・・(暫し絶句)・・・・お顔を見ておると・・・・・・・・(絶句)。私が!・・・・もっとしっかりしておれば!・・・・・これほどの犠牲を・・・・・払わなくても済んだ!・・・・・・と思うのです。私の指導がまずかったために!・・・・・・考えてみれば!・・・・・・・何十人かの余計な人を殺してた・・・・・ご遺族の方々の・・・・・・お顔を見ておると!・・・・全く、自責の念で一杯で・・・・・なぜもっとしっかりしなかったのだ源田は・・・・・・例えば杉田庄一君!私の危機感がもっと早かったならば、彼だって!殺さなくて済んだ・・・・・。林喜重君!彼が菅野君と前の日の夜飲みながら、明日B29を自分が墜とさなかったら、私は、もう帰ってこないといういうことをいった。そうしたら菅野君が、それならば私も帰ってこない、墜とさなかったら帰ってこないぞと。・・・・菅野君は墜としたのです。林君は墜とし得なかった。運が悪くて、だから彼は体当たりをしたのです。これを前日に私が知っておったならば、林君にはもっとやることがあるのだ、生命を捨てるのはもっと後でやるのだ!・・・・と、彼を止めることができたのです。こういう例がたくさんある。」

 巻頭言の源田実本司令の話の中には343空設立の経緯も書かれている。
 「昭和十九年七月六日のサイパン(南雲中将)玉砕に次ぎ、八月三日テニヤン(角田中将)も玉砕するにおよんで、戦局はついに本土に及ぶ態勢に陥った。その間私が頽勢挽回のために企画し実施した施策のすべてが、志と違いズルズルと後退を余儀なくされていった。私はつくづくと考えた。主役の海軍が、海上航空戦で圧倒されているが故に今日の敗退があると。 軍令部の航空作戦の主務参謀としての、またもう一つは海軍戦闘機隊の一員として私に課せられた責任を果たすために出来ること、そしてぜひともやらなければならぬことはただ一つ、何とかして精強無比な戦闘機を作り上げて、往時のごとく片端しから敵機を射落し、敵に脅威となる部隊を持つということ。それができればその部隊の戦闘を突破口として、怒涛のような敵の進撃を食い止め頽勢挽回の緒を掴むことができる。否!やらねばならない。かくて出発したのが第三四三海軍航空隊である」

 今年(2021)の1月に亡くなられた笠井智一さん(杉田の列機で常に行動を共にした)も編集に携わったということであるが、杉田に関するエピソードを書いている。

「ギラギラと焼付くような太陽、油を流した ようなアブラ湾を見下す大宮島(現グァム島) 第一基地に、先程着陸したダグラス輸送機から、ゆっくりとした歩みでズングリ中背の顔に、火傷跡も生々しい見るからに精そうな下士官が玉井浅一司令の前に独得の挙手の礼で着任の挨拶をしている姿があった。
 (石野註:杉田は片手で拝むような敬礼をしていたという)
 昭和十九年二月二十三日サィパンの空戦、 さらに三月三十日ペリリユ島の空戦に、一航艦ニ六三空(別名豹戦關機隊)はその主力搭乗員に潰滅的な打擊を受け、基幹員の不足から毎朝の上空哨戒にも事欠く昭和十九年四月中旬であった。
 待機所の搭乗員に全員集合がかかった。玉井司令から『本日着任の杉田一飛曹だ』
 台上の杉田兵曹は物静かな口調で『俺が杉田だ、何も云うことはないが遠處せずについて来い』これが着任第一声であった。
 待機所では色々と憶説が流れたが、過去の戦歴について誰一人知る者はなかった。一木利之先任下士官から聞かされたのは、彼はラバウル航空隊の歴戦の猛者で、火傷を負い大村空の教員から転勤して来たとのことであった。もちろん彼が山本長官護衛戦闘機隊の一員であったことも、全く知らされもしなかったし知る由もなかった。その日私は杉田兵曹 の三番機として編成が組まれ、戦死の日まで 行動を共にすることになった。」

 その日の晩、笠井さんは杉田に呼び出される。そのとき「俺の愛する列機来い!」と言われ、怖い先輩からバッターの洗礼を受けるものと覚悟して杉田のところに行く。すると一升ビンが食卓の上にデーンと置かれ、すでに半分くらいになり杉田は上機嫌になっていた。以下が、笠井さんの受けた強烈な第一印象だ。

 「『官等級氏名を名乗れ』 『ハィッ、笠井ニ飛曹甲飛十期』『ヨーシ。』
早速酒盛がはじまった。杉田兵曹から見れば全くの子供扱である。この時何を聞いたか失念したが、『貴様達は戦闘機乗りとして戦地に来たからには、酒ぐらい飲めなくてはグラマンと空戦は出来んぞ』と、さあ飲め飲めとドンブリ茶碗である。またたく間に一升ペロリ。おいちょっと待っとれ、といつてよろめく足で何処かへ。しばらくすると遠くから歌 かきこえてきた。
   ソロモン群島やガダルカナルへ

   今日も空襲大編隊
   翼の二十粍雄叫びあげりゃ
   墜ちるグラマン、シコルスキ— 
 何処から持ってきたのか、一升ビンを肩にかつぎ細い目をさらに細くして得意満面。酒色共に旺盛な、静かな豪傑肌の人であった。」

 笠井さんの講演はYouTubeでもいくつか視聴できるが、杉田のことを「静かな豪傑」と表現する。豪傑肌であったことは他の多くの方の印象に書かれている。「静かな」ということにひっかかる。あまり口数は多くなかったということだろうか。

 菅野が本土に呼ばれ(おそらく343空結成準備のためと思われる)、残された杉田は特攻を志願し、玉井司令(副長)に直談判する。その場面は以下のように書かれている。

「マバラカッ卜でのある日、連日の特攻攻撃に戦友達は次々に戦死、杉田兵曹は何か思いつめた様子で『笠井拳銃を持って俺と一緒に来い。』
 『日光はどうした』『ハッ、日光は今マラ リアの発作で兵舍です。』『うんそうか、止むを得ん』
 二人は拳銃片手にマバラカット飛行場の横を流れるバンバン川の土手をおりた、茺の生い茂った川床の粗末な指揮所へ。『副長、ぜひ 特攻に征かせてください。』副長は一瞬『何特攻? 馬鹿なことを……。特攻は何時でもいける。それよりお前達は内地に帰えり、 戦死した戦友達の墓参りを俺の代りにしてこい。 それがわしの頼みじゃ。たのむぞ』と、独得の静かにさとすよぅな口調でいわれた。杉田兵曹は返えす言葉もなく引きさがらざるを得なかった。」

 紫のマフラー「ニッコリ笑えば必ず墜とす」のエピソードは以下のように記述されている。
 「三〇一飛行隊の区隊編成で杉田兵曹は菅野隊長区隊の第二編隊の一番機として、 私はその二番機として行動を共にすることになった。前にも述べたが、彼は管野隊長の絶対崇拝者であり、誰からもこよなく愛され頼られ、実戦を生かしたよき助言者でもあった。 また『杉さん』の愛称で親しまれていた。飛行作業が終わって兵舎に帰えると必ず『愛する列機来い』とお呼びがかかる。今日の訓練の注意かと思えばさにあらず。当時流行の疥癖(皮廣病)の搔き方と肩揉である。訓練飛行ではいきなり編隊離陸と編隊宙返りである。必死になってついていったことを覚えている。 厚巻はひねり込みの操作である。なにかにつけてきびしかった。特に編隊について格別のきびしさがあった。紫電隊なので紫色のマフラ—を作ってはとの発案で、早速作ることになったが、当時はマフラ—にするような布地もなく困っていたところ、隊長以下三〇一飛行隊の連中がお世話になっていた大西琴子 さん(現姓今井)が、 それでは何とかしましょうとのことで二十数名分の布地を紫色に染めてくださった。このマフラ—に杉田兵曹の好みの合言葉「ニッコリ笑えば必ず墜とす」 を地元女学校の生徒さんに刺繡をしていただ き、杉田兵曹はこのマフラ—とともに鹿屋の空に散ったのであった。私は今もその紫色のマフラ—を、杉田兵曹の想い出とともに生涯心の支えとして、刺繡した生徒さんの名前とともに保存している。」

 現在、このマフラーは紫電改展示館に現物が飾られている。そして、紫電改展示会のお土産コーナーには紫の「ニッコリ笑えば必ず墜とす」マフラーや缶バッジなどが売られている。





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