見出し画像

杉田庄一ノート78 昭和20年4月15日、杉田死す

 4月15日、春の早い鹿児島では桜も散り果て若葉の美しい季節になっていた。その日の当番である戦闘301隊の第2区隊(杉田区隊)は、即時待機別法で機上待機をしていた。一番機は杉田庄一上飛曹、二番機は笠井智一上飛曹、三番機は宮沢豊美二飛曹、四番機は田村恒春飛長である。日頃から一番機と三番機、二番機と四番機がペアになり、四機でフィンガーフォーのフォーメーションを組む訓練をしていたが、杉田区隊は格別に編隊での練度が高かった。

 電探見張り所から、「敵編隊、佐多岬の南東10カイリを北進中」「敵、佐多岬上空」と緊急通報が入る。少し近いなと源田司令は思ったが、放っておく手はないと「即時発進」を発令する。待機部隊の紫電改は直ちにエンジン始動、試運転を始める。
 常に早い対応を訓練していた杉田区隊が一番早く動き出す。一番機の杉田とそれに従う三番機の宮沢二飛曹は砂ぼこりを上げて動き出す。杉田は、いつものように後ろを振り返り、列機たちに上空を指差しながらフルスロットルで滑走を始めた。
 グラマン7〜8機の編隊が急降下してきている。源田司令は、敵機が上空に入ってくるのを認め、「まずい。発進止め、退避せよ!」と中止命令を出す。しかし、すでに二機が離陸中で、それを追ってさらに二機が発進しようとしている。
 笠井氏は発進するため、「チョーク外せ!」と腕を開いて合図を送るが、整備員がいない。退避しはじめていたのだ。仕方なく自分で外さねばと操縦席から降りようとしたとき、ロケット弾がいきなり笠井機の至近に打ち込まれ、破片で翼に大穴があく。もう敵機がいる。
「杉さん、だいじょうぶか!」と目で追うと、離陸中の杉田機がぐらりと傾き、黒煙をあげ、飛行場の端に突っ込んで炎上した。「杉田兵曹!あーっ」、信じられない光景に笠井氏は声をあげずに叫んだ。
 宮沢機も離陸後そのまま逃げればいいのに、墜ちた杉田機の上を飛び越え、敵に向かおうと左旋回をしたが、上からグラマンの斉射を受け、火を吹いて墜ちた。鹿屋市国立療養所の庭に激突、炎上する。

 この日の杉田戦死の場面は多くの戦記に書かれている。『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)『還ってきた紫電改』(宮崎勇、光人社)『海軍航空隊始末記』(源田實、文春文庫)は、いずれもその場にいた当事者であり、それぞれの立場で書いているので読み比べてみるとその時の思いがよくわかる。
 源田氏は、発進命令を出したあと「『間に合うか、どうか』と私も一瞬ためらった。離陸直後が最も危険である。敵機を見れば既に突撃態勢に入りつつあった。残念ではあるが已むを得ない。『発進止め、退避せよ』を下令し、全機了解したものと思っていた」と、記述している。
 一方、笠井氏の記述である。「基地の上空に敵機が現したので、指揮所から『離陸中止、退避せよ』の命令が出たそうなのだが、私は未だに納得していない。あの日、離陸中止の赤旗は見なかった。中止命令は列線の搭乗員が認識できるように伝令が滑走路に出てきて赤旗を振るのだが、あの日、そのような赤旗を私は断じて見ていない。」どうしても納得できないという主張である。
 宮崎氏の記述は、「隊の大部分はこの発進中止命令を聞き、了解したのだが、なぜか二機だけ伝わらなかったのか滑走をはじめていた。これに気のついた連中が、祈るような気持ちで二機をみつめた。先に発進した一機は、離陸直後五十メートルも空中に浮かないところで銃撃され、翼を裏返して滑走路のはずれに消えた。」
と、なっている。

 杉田の戦死は、多くの仲間に衝撃を与えた。特に笠井氏にとっては、初陣のときからずっと杉田に育てられ、『俺の愛する列機』と呼ばれ、怒られてきた兄のような存在だった。杉田の死を信じられない思いでいたと思われる。『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)では、杉田の戦死について記述した後に次のように言葉を送っている。

 「杉田兵曹はだれか悪口を言おうものなら殴りかかるほど、上官の菅野大尉に敬愛の念を抱いていた。そして同時に大変な部下思いでもあった。彼は技量抜群でかずかずの武勲をたてながらも自分の手柄話はまったく口にすることがなく、山本長官機の直掩をつとめていたことを私が初めて知ったのも、戦後に書物を通じてだったほどでだ。いまでも、あの細いやさしい目で、『おい、愛する列機来い』と呼ばれそうな気がする。じつに立派な、尊敬すべき戦闘機搭乗員であった。」

 菅野大尉も杉田の死を信じられない思いでいた。自分がすぐに退避していれば杉田も退避しただろうが、最後まで出撃をあきらめなかった自分に杉田が従っていたのが原因だと思っていた。菅野大尉と杉田は年齢や階級をこえてお互いに信頼しあう仲であった。どんなことがあっても、いつも自分の後ろに杉田がいる。杉田が守っていてくれる。杉田は死なない。杉田が死ぬわけがない。そのような思いを菅野はもっていたに違いない。だれの目にもその落胆ぶりがわかったと宮崎氏は書いている。

 源田司令も杉田の戦死にかなり強く責任を感じたようで、次のように書いている。
 「杉田上飛曹は菅野大尉秘蔵の部下である。彼の落胆も思いやられる。私は杉田君の遺骸を前にして、菅野大尉に謝った。
 『菅野大尉、私の決心が遅れたために、杉田を殺してしまった。全く済まない。君もさぞ力を落したことと思うが、私は、天に誓って、杉田に劣らない程の操縦者を補充してやる。しばらく待ってくれ』
と。菅野大尉は、私の言葉は黙って聞いていたが、自分の隊員に対しては、
 『今日杉田上飛曹を殺したのは、自分が無理に離陸しようとして何時までも頑張っていたからだ』
と言っていた。」

 敵機が去った後、医務室の衛生兵が墜落現場から杉田の遺体を車で運び、箱の中にいれておいた。ショックの収まらない一同の中で、杉田の遺体を気にしていた宮崎勇氏は基地の中を探したが見つからない。夕方になって、「第八根拠地隊」(通称ハチコン)という地上部隊まで一人で探しにいく。ハチコンは、出入りの多い鹿屋基地で庶務的な仕事を引き受けていた。基地中心部から少し離れた場所にハチコンはあり、裏山を切り抜いたような壕に二つの木箱が置いてあるのを見つける。あけてみると、二人の遺体だった。『還ってきた紫電改』(宮崎勇・鴻農周策、光人社)の中に記述がある。
「・・・人の大きさだったのでソッとあけてみると、杉田、宮沢両君の遺体だった。胸にグッとくるものがあり、根拠地隊の隊員に、
『もっと何とかなりませんか。この搭乗員は、われわれにとって大変な人なんだ・・・・』
 と、説明して軍医を呼んだ。
 すると、代わりに少佐の人が出てきたので、三四三空側からは志賀飛行長(少佐)が来てくれた。
 そうすると、今度は相手は中佐が出てきて話し合って、ようやく日が暮れた頃、根拠地隊の軍医課で遺体を安置してくれて、われわれも、ひと安心したのだ。
 戦争に戦死はつきものだが、真っ昼間の地上の、私たちの目前で散った凄惨な被害だった。戦争とはいえ、二人が寂しく放っておかれた処置は哀れでならなかった。豪快な杉田君の笑顔と一緒に、この日のことを思い出す。」

 源田司令は、菅野に約束したとおり、杉田の代わりとして「空の武蔵」と言われていた武藤金義少尉の獲得に動き出す。以前のnoteに書いたが、杉田と坂井三郎氏の軋轢から、坂井氏と横空の武藤少尉の交換の話があり、横空に断られていた。この交換を源田司令は強引に進めることにした。なかなか横空も武藤をすぐに手放そうとせず、三ヶ月後にようやく実現することになる。

 翌4月16日の昼ごろ、鉄道の枕木をならべて二人の火葬が行われた。その最中にふたたび鹿屋基地が空襲される。P-51マスタングのロケット弾攻撃で杉田の遺体が吹っ飛ばされる。杉田に対しては、念には念を入れてとどめを刺さなければならなかったのかもしれない。壮絶な杉田の最後であった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?