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杉田庄一ノート96 「最後の紫電改パイロット 不屈の空の男の空戦記録」(笠井智一)に書かれた杉田庄一①出会い


笠井智一氏(予科練時代)


笠井智一氏は大正十五年(1926)の三月八日、兵庫県多紀郡福住村藤ノ木(元丹波篠山市)に生まれ同地で育った。男三人、女二人の兄弟の末っ子である。藤ノ木は山に囲まれた田園集落で、笠井の家も十人以上の大家族が住む農家だった。毎日、農業の手伝いや牛の世話などをして笠井はのびのびと育ったが、鳳鳴中学校に通っている時に海軍兵学校に入った先輩の講話を聞いて、これからは飛行機の時代だと思い海軍航空隊入りを目指す。

藤ノ木(元丹波篠山市)風景 笠井さんの生家もこの集落の中にある

 中学校の職員室前に貼られていた「甲種飛行予科練習生制度」の募集ポスターを見て「これだ」と思い、周囲の反対を押し切って受験し、見事難関を突破する。体は大きく、写真などから推定すると百八十センチメートル近くはあったと思われる。この頃の予科練は、甲種(幹部搭乗員候補で旧制中学校四年修了が条件)、乙種(下士官搭乗員候補で高等小学校卒業が条件)、丙種(旧操縦練習生制度に該当する者:下士官兵から選抜して搭乗員を育成する制度)の三種類に分けられていた。杉田は丙種予科練である。

 昭和十七年四月、中学四年で甲種予科練十期生となり土浦海軍航空隊に入隊、激しい訓練と罰直(制裁)の生活を送る。身体が大きいせいか、余計に殴られたという。昭和十八年五月、戦局悪化のために予定を四か月繰り上げて予科練を卒業し、第三十二期飛行練習生として霞ヶ浦空千歳分遣隊で初歩飛行訓練を受ける。これまでであればじっくりと専門飛行種の訓練を受けるところであるが、それはかなわずグライダーで操縦訓練を受けることになる。その後千歳空でようやく九三式中間練習機(通称赤とんぼ)という複葉機で編隊訓練や特殊飛行の訓練を受けることになる。この頃は予科練生だけでなく海兵も予備学生も搭乗員養成を増強していた。この年の秋入学の予科練十三期だけでも約二万八千人も入っている。

 昭和十八年十一月、徳島空で延長教育を受け、九六戦や零戦を使った訓練を二十日間だけ受ける。十一月下旬、玉井浅一中佐が零戦でやってきて、成績のよい搭乗員を編成中の二六三空「豹」部隊に引き抜いた。「いまから名前を呼ぶ者は、明日卒業だ」と言われ、笠井も名前を呼ばれた。そのまま松山基地で編成中の「豹」部隊に配属となった。予科練を卒業して半年、赤とんぼの訓練と二十日ほどの延長教育で戦闘機を体験しただけで正式に戦闘機隊に配属となった。空中戦の訓練はおろか、零戦での離発着の経験をした程度であった。

 昭和十九年三月、笠井ら(甲飛十期生たち)は玉井司令から呼び出され、「お前らはまだろくに空戦もできない伎倆だが、搭乗員がたりないのでとにかくマリアナに行け」と命令される。射撃訓練もまともにできていない状態で前線に出すのは海軍航空隊として初めてのことだった。笠井たちは、松山から千葉県の香取、硫黄島を経てサイパンのアスリート飛行場に向かった。

 零戦での離着陸や水平飛行がやっという状態の甲飛十期生たちが、初めて長路の洋上飛行でサイパンに向かうのはやはり無謀であった。艦爆「彗星」による誘導機がついていたにもかかわらず、硫黄島への着陸で二機が着陸失敗。誘導機を九六陸攻に交代し、硫黄島からサイパンに向かう途中でエンジン不調で二機引き返し、故障で一機が海に落ちて殉職する。サイパン上空では南方の海特有の巨大な積乱雲に阻まれ、手前のパガン島の緊急避難用飛行場に着陸するが、二機行方不明。結局、十七〜八機で出発したのが十二〜三機になっていた。この経緯は、菅野の率いた三四三空「豹」部隊の甲飛予科練生と同じ顛末であった。未熟な搭乗員をこうまでして前線に配置しなければならないほど、日本海軍航空隊が追い込まれていたことの証である。

 サイパンで数日過ごした後、本隊のあるグアム島へ移動する。この頃、グアム島は大宮島と日本名がつけられていて、零戦の実戦部隊がおかれていた。笠井たちは、グアム島についてから朝五時起きで夕方まで新鋭機である零戦52型で編隊飛行での戦闘訓練を行い、夕方には哨戒任務を行なった。三月のこの時期まだ米軍とは遭遇しなかったので、つかの間ではあるが、上空哨戒や模擬空戦など操縦訓練を積むことができた。

 三月三十一日、ペリリュー島の航空基地に米軍の大規模な空襲が行われた。笠井たち「ひよっこ」たちもいよいよ自分達の出番だと勇み込んだが、玉井司令に一括される。「お前らはあっちへいけ!お前らにはまだ空戦の伎倆はない。いま上がったら片っ端から墜とされるぞ!お前らに空戦の資格なし!」それから約一ヶ月、「ひよっこ」だけではあるが、決意もあらたに猛訓練に明け暮れた。昭和十九年四月のことである。

 昭和十九年四月末、ダグラスDC3輸送機に乗って内地から杉田庄一が転勤してきた。三月三十一日の空戦でベテラン搭乗員の多くが未帰還となり、ほぼ全滅状態の二六三空に急遽助っ人として呼ばれたのだ。かなり印象深い出会いであったのか、その時の様子を笠井は本や講演でたびたび紹介している。

 ライフジャケットを肩にかけ、ゆっくりした歩みでずんぐりした杉田が、搭乗員が集合している待機所の天幕にやってくる。顔の火傷痕も生々しく、左手は包帯をしている。右手は青白くなっている。見るからに精悍な下士官搭乗員だ。
「杉田一飛曹、転勤で参りました」
 玉井浅一司令の前に来ると独特の片拝みをするような宜候型(ようそろがた)の敬礼をして転勤報告をした。司令は、整列をしている搭乗員に紹介する。
「本日着任の杉田一等飛行兵曹を紹介する」
 台上に立った杉田があいさつをする。
「おう、おれが杉田だ。何も言うことはない。編隊にしっかりついて来い!」
 それだけいうと台から降りた。
 もともと海軍の敬礼は狭い艦内で行うために肘をはらずに鋭角に行うのだが、杉田の敬礼はさらに鋭角にして目の前で手刀を切るような特徴的なものだった。
 杉田が去ったあと、過去の戦歴を知っているものはおらず、若手搭乗員たちはいろいろと憶測を言い合う。
「おっかなそうだな、ラバウルにいたらしいぞ」
「顔はやけどをしとるし、なぐられるんとちがうか」
圧倒される迫力にみんなびくびくしていた。山本連合艦隊司令長官の護衛機だったことは、玉井副長以外誰一人知る者はなく、本人も語らなかった。

 すぐに新しい編成が発表になり、笠井は杉田の三番機に指名される。笠井は覚悟をするが、心中おだやかでなかった。
「ああ、やれやれ、こりゃいつなぐられることになるかわからん」
夕方になるとすぐにお呼びがかかる。
「今日、編成替えがあった俺の愛する列機こーい」
「え?杉田一飛曹がさっそく俺たちを呼んどるぞ。挨拶がわりに一発ぶんなぐられるんかな」
と、列機に指名された三人で恐る恐る出向く。搭乗員室の食卓に晩飯が用意され、一升瓶がでーんと据えられている。すでに半分くらい減っていて、杉田はかなり上機嫌になっている。玉井司令からもらってきたらしい(玉井司令は、ラバウル時代の杉田の上司であった)。

「官等級氏名、名乗れ!」
はじめて戦地に出てようやく制裁から逃れることができたのに、練習生時代と同じようにバッターの洗礼を受けるのかと戦々恐々として申告する。
「甲飛十期生出身二等兵曹、笠井智一!」
杉田は、小さい声で
「よーし、そうか。お前が今日から俺の三番機か」
そのあと、大きな声で
「俺の三番機になったら酒ぐらい、どんぶりで飲まんようではグラマンには勝てんぞ!さあ飲め飲めと、どんぶり茶碗で酒盛りがはじまった。笠井は、まだ十七歳で酒を飲んだことがなかった。杉田も十九歳なのだが・・・。

「おい、お前ら、戦地というのはそんなに簡単なもんじゃないぞ。お前らみたいなやつが敵を墜とそうなんて思い上がっていたら、みな墜とされてしまうぞ!墜とさなくてもいいから、とにかく俺についてこい!」
 またたくまに一升瓶があくと、「ちょっとまっとれ」と言って、よろめきながら一升瓶を肩に歌いながら戻ってくる。そして、次の日から編隊空戦の訓練と夜の酒盛りの日々が続くことになる。夕方になると「俺の愛する列機こーい」とお呼びがかかる。酒のつまみは、編隊飛行の反省である。酒がなくなると、どこかに一人で出かけ、搭乗員節をうたいながら一升瓶をかつぎ、歌いながら戻ってくる。

 杉田も笠井たちもまだ十代後半である。「黙って俺について来い」と少し芝居がかっているふるまいであるが、この頃浪花節が流行っていて、当時の若者たちの言動が影響を受けていても不思議ではない。
 注目したいのは、杉田は編隊飛行の訓練では、鉄拳制裁で従わせるよりもチームとしての一体感を作り上げることが重要であることを意識していたことである。笠井はのちに杉田のことを「静かな豪傑」と称している。豪傑のようなふるまいと同時に考え込むような面も笠井には見せていた。山本長官の護衛機であったことの悔いがそこにあったことは想像に難くない。

 こののち杉田が戦死するまで、笠井は杉田の列機として過ごしているのに、一度も山本長官の護衛機だったという話を聞いたことがなく、戦後になって初めて知るったという。



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