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杉田庄一ノート17:昭和20年3月19日から4月15日〜「三四三空隊誌」その3

 写真は紫電改記念館にあるジオラマ。手前の紫電改は黄色い斜め帯が付いていて杉田庄一の乗機であることが分かる。

 「その2」で、田村恒春さんの記述した3月19日の空戦だが笠井さんは腹痛(下痢)で戦闘参加できなかった。下記のように記している。
「三月十九日杉田兵曹は、列機と共に三機撃墜の武勲をたてたのであるが、私は下痢のため戦闘に参加出来ず今もって一生の不覚であったと残念でならない。」
 翌日、笠井さんは杉田とともに「のんべい」といういっぱい飲み屋に連れて行かれ、腹が痛くて戦闘機乗りができるかと怒られる。しかし、次の日にわざわざ飲み屋に呼び出してということを考えると、そうとう落ち込んでいた笠井さんを励ます意味があったのではと推測する。この「のんべい」は道後松が枝町の坂を下った突当りにあり、杉田の行きつけの店だった。この店のおやじさんには特別可愛がられ下宿も近かったので杉田はよく笠井さんを飲みに連れ出していた。杉田が戦死時に着用していた革手袋を遺品として田村さんが下宿に届け、遺族に渡されたことが記されている。

 さて、4月15日杉田戦死時についてその場に直接居合わせた笠井さんの記述が以下のようになっている。
 「この日ここ鹿屋基地では桜の花もすっかり散り果て若葉が美しかった。この日私は何とはなしに気の重い朝を迎えた。指揮所にはZ 旗があがり、搭乗割は一番機杉田上飛曹、ニ 番機笠井上飛曹、三番機宮沢ニ飛曹、四番機田村飛長の編制で、朝から即時待機別法で待機していた。「敵編隊鹿星に向って北上中」 の情報が入り、直ちにエンジン始動試運転もそこそこに一、三番機が猛然と砂ぼこりをあげ、杉田兵曹は後をふり返えり上空を指しながら、離陸をはじめた。その時、七〜八機の グラマンが銃擊をしながら急降下して来た。もちろん離陸機に向ってである。私はハッ‼︎ と思った。私も直ちに離陸すべくチョーク (車輪止)を外す合図をしたとたん、ロケッ ト弾(小さなロケット弾を翼下に搭載していた)が炸裂し翼に大穴。もうこれまでと機外に飛び出そうとふと離陸していった方向に目をやった。アッ‼︎ そこに信じられない光景が……。グラマンの一擊で杉田機は、グラッとかたむき黒煙とともに飛行場の端に突込むのが目に入った。「杉田兵曹」私は声になら ない大声をあげた。」

 笠井さんは常に杉田の『列機』として戦ってきていた。あっけない杉田の最後が信じられなかった。『三四三空隊誌』には次のように記されている。
「私は昭和十九年四月以来、常に列機として数々の戦闘に助けられてきたが自分の手柄話は全く口にすることなく、部下を見守りただひたすらに撃ちてし止まん、「ニッコリ笑えば必ず墜とす」 の言葉通りの気魄で、長官戦死の責任を負うために死場所を待っていたのではないだろうか、と思われてならない。あの細いやさしい 目で今にも「おい愛する列機来い」と呼びそうな気がするのである。」

 また、笠井さんは戦後に不明だった杉田の遺族を探し出し、遺族とともに鹿屋に慰霊訪問を行っている。
「昭和五十二年七月二十三日、三四三空の慰霊祭が靖国の御社で源田司令以下多数の御遺族と生存者が参列してしめやかに挙行された。 司令の切々として情感あふれる慰霊の言葉の中にも、杉田兵曹の武勲を称える言葉があり、 感動その極に達したのであった。この席では 杉田兵曹の御遺族にお目にかかれなかった。 何故?早速志賀飛行長に尋ねたところ、どうしても連絡がとれなくて県に問い合わせたところ大阪方面に転居されたらしいので是非さがしてほしいとのことで、早速豊中市庄内 の目指す番地を尋ねた。八月十四日であった。 私は明日はお盆だ、杉田兵曹は必ず会わせてくれるだろうと確信をもって歩いた。午後三時頃さがし当てることが出来
御母堂は大変御元気だったが、庄一は内地で戦死したのに遺骨がないのはどうしたことだろうか。私は今となって遺骨についてはあきらめているが、せめて元気な間に庄一の戦死した地を是非訪れたいのが念願であると、聞かされた。その旨源田司令に連絡、相生副長、志賀飛行長の一方ならぬ御尽力によって慰霊訪問が実現した。
 御母堂は、庄一が七月一日に生まれたので 是非その日に慰霊をしたいとのことで、昭和五十三年七月一日、御母堂と弟君二人に私の四人が旧鹿屋基地(現海上自衛隊基地)を訪れた。基地では司令官はじめ隊員の方々から 身に余るほどの御世話になり、基地内戦死の地で香華を手向けささやかな慰霊祭をしたのであった。御母堂は非常に喜こばれ、これで 私は思い残すことはないとしみじみ語られ、 関係各位の御厚意に感謝しておられた。私も、杉田兵曹に受けた御恩の万分の一でも御恩返しをしたいという、戦後ずっと思いつづけてきた念願がようやくにしてかなえられた思いで、いくらかほっとしたのだった。」

 笠井さんは、杉田とともに離陸直後に撃墜された三番機宮沢豊美二飛曹の慰霊も同じく行っている。
 「四月十五日同じ日に戦死した三番機沢豊美ニ飛曹の霊が、土地有志の方々の手で手厚く葬られていることを聞きそこをたずねた。 鹿屋市星塚町国立療養所敬愛園北側の松林の一角に墓地があり、真光寺平川住職はじめ地元の方々が戦後三十余年の今も、美しく掃除のゆきとどいたところに碑が建てられ、当日平川住職はじめ地元の十数名の方々と杉田御遺族と共に読経慰霊をしたのである。」

 志賀飛行長も4月15日について記述している。

<次回に続く>



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