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杉田庄一物語 第二部「開戦」 その15日本軍南洋方面進出

 昭和十七年が明けた。日本軍の快進撃が報道され、連日祝勝ムードが日本中に漂っていた。あれほど「弱腰」と右翼に命をねらわれていた山本五十六が、一転して「英雄」として祭り上げられることになった。連合艦隊旗艦である戦艦「長門」にいる山本に、日本全国から毎日大変な数の賛辞の手紙が届けられた。その一つ一つに山本は愚直に毛筆の丁寧は返書を書いていた。
 だが、賞賛の言葉は山本には虚しかった。思いを同じくする海軍参事官の榎本重治にあてて
「徹夜で勝負をやろうというのに一風や半風で三百や五百貰ったとて何の安心してなるものか、之からは振り込まず安上がりにチビチビためていく事」
と、麻雀になぞらえた手紙を書いている。このあたりが本音だろう。

 大分海軍航空隊の杉田たち練習生も訓練の合間に別府温泉に外出したり、花見をおこなったりと実戦配備を前にして、わずかながら余裕があった。華々しく報道される戦地の様子に、はやる心を抑えながら最終課程の訓練に励んでいた。そのような中で特に気になるのは日本海軍航空隊のラバウル進出であった。自分達が赴く戦場がラバウルになることを意識せざるを得なかった。

練習生時代

 一月四日、第二十四航空戦隊の九六式陸攻十六機が、豪州委任領であるラバウルを爆撃する。同日夜も、九七式飛行艇九機がラバウルの飛行場に爆撃を加え、その後も半月にわたり爆撃が続いた。

 一月二十日、ラバウル上陸を見据えて、第一航空戦隊の空母「赤城」「加賀」、第五航空戦隊の空母「瑞鶴」、「翔鶴」の艦爆隊がラバウルの飛行場、海岸砲台を爆撃する。ラバウルへの爆撃は、翌二十一日も翌々日二十二日も実施された。

 一月二十三日、井上成美司令長官指揮下の第四艦隊を基幹とする南洋部隊が、ニューブリテン島ラバウルとニューアイルランド島のカビエンへの上陸作戦を実施する。南洋部隊はラバウルやニューブリテン島各地を占領したあと航空基地を設営し、ニューギニア島東部の連合国軍飛行場に空襲を行った。

 その後、二月から三月にかけてラエ、サラモア、ツラギ、ポートモレスビーなどを攻撃する。四月に入ったらツラギ、ポートモレスビーを攻略占領するためである。ポートモレスビーは、ラバウルから約四百三十五浬(八百キロメートル)離れているパプアニューギニアの首都で、今後ニューギニア方面作戦が展開するときの最大の軍事拠点とする予定であった。これらの作戦はみな、オーストラリアを米国から遮断し孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)の一環である。

太平洋図

 一月二十四日、ラバウル飛行場の整備が突貫作業で行われ、小型機の発着が可能になった。そこで、千歳空の九六式艦上戦闘機(九六戦)がトラック島からラバウルに進出した。当時、零式艦上戦闘機の供給が間に合わず、引き込み式脚を持たない時代遅れになっていた九六戦で間に合わせるほかなかったのである。

 二月十日、ソロモン方面における航空戦力を増強するため第四航空隊(四空)が編成され、第二十四航空戦隊に編入された。定数は戦闘機二十七機、陸上攻撃機二十七機である。戦闘機はまだ九六戦のままであり、零戦の配備が急がれた。

<参考>

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