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杉田庄一物語 第三部「ミッドウェイ海戦」 その24 ガダルカナル島上陸

 「第二段作戦計画」は、ニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア、フィジー、サモアの攻略作戦(FS作戦)からなっていた。珊瑚海海戦でMO作戦は空母一隻を失い中止。そして、ミッドウェイ海戦で日本海軍は空母四隻を失いFS作戦も一時中止されることになった。「第二段作戦計画」はここに破綻することになる。しかし、海軍はあくまでも「米豪遮断作戦」を継続し、ガダルカナル島に航空基地を建設、基地航空部隊を進出して、ソロモン諸島の制空権を得ることで戦局を転換しようと考えた。この時点で陸軍にはガダルカナル島の地図はなく、それどころか作戦首脳ではその位置さえつかめてなく、情報収集に追われることになった。

 七月六日、陸軍の基地設営隊と海軍陸戦隊がガダルカナル島に上陸し、ルンガ地区に基地建設を行うことになった。

 七月七日、六空もラバウルに進出するために再編される。杉田はそのまま六空に残っていたが、杉野二飛曹、谷水三飛曹、米田二飛曹、安達二飛曹ら四名は母艦搭乗の経験を買われ、特設空母「春日丸」搭乗員として転勤して行った。特設空母「春日丸」は、八月に「大鷹」に改名し軍艦籍に入れられている。

 暑くなった木更津基地では、宮野大尉のもとで錬成が進められた。ミッドウェイに関わる兵舎での禁足も解けたころ、搭乗員たちが揃って丸山武雄二飛曹の実家近くに海水浴に行くことになった。トラックにスイカを積み込み、大はしゃぎで出かける際に「オイ、いっしょに行こう」と相楽も誘われた。飛行兵と整備兵の間には、暗黙の壁があったがそれを感じさせない声がけであった。相楽は、この仲間のためには俺はどんな努力も惜しまないぞとこのとき心を熱くしている。

 相楽ももともとは飛行機乗りを目指していた。昭和十三年に第二期甲種飛行予科練習生として横須賀航空隊に入っている。しかし、中間練習機教程まで進んだときに病気になり、搭乗員をあきらめたという経緯があった。宮野大尉をはじめ六空隊員たちは彼の気持ちを組み、同じ仲間として接していた。六空には、他の隊と違って宮野大尉のつくる上下間をまたぐような温かい雰囲気があった。

 相楽はかなり歳の差のある杉田と特に気が合った。あるとき、杉田が相楽を飲みに誘った。訓練飛行でうまくいかないことでもあったのかもしれない。
「相楽兵曹、今日はわたしがおごるからいっぱい飲みましょう」
「そうか、そいつはありがたい。だがお前、フトコロはだいじょうぶか」
「どうせ冥土には持って行けない金です。せめて死なないうちに、日ごろお世話になっている相楽兵曹に飲んでもらわなくちゃ」

 と、飲みに出たのだが、いつのまにか「下士官が兵に金を出させる手はないよ」と甘えられることになり、結局は相良がおごることになった。杉田は頓着のない明るさがある。だいぶ酒がまわると、杉田は顔をキッとあげて相楽に言った。
「相楽兵曹、わたしは操縦の技量はよくないが、元気で行きますよ。元気で、ね」
相楽は「こいつは、きっとりっぱな戦闘機乗りになる」と思った。このときの杉田の眼差しを相楽は戦後までよく覚えていた。

 七月十日、新型の零戦三二型(二号戦)十機が六空に配備される。日中戦争時代から活躍していた零戦もヨーロッパでの航空戦における戦闘機の著しい進歩と比べると遅れを感じさせるようになっていた。ヨーロッパ航空戦ではエンジンの馬力アップによる主力戦闘機の改良が進んでいた。合わせるように米軍機も二千馬力級戦闘機の生産が急がれていた。しかし、日本ではまだ戦闘機の改良や新規開発がうまくいっていなかった。零戦を大幅に改良しようにも、機体の重量を極限まで絞った零戦に大馬力エンジンを乗せるには無理があった。しかも零戦に代わる次世代戦闘機(烈風)の開発は軍側の無理な要求性能を満たすことができず足踏み状態が続いていた。

零戦32型側面図
零戦32型平面図

 そこで、エンジンの大きさはそのままに二速過給器付き栄二一型に換装し、両翼端を五十センチメートルずつ短く、燃料タンクを少なくしてスピードを少しでも増すようにしたのが零戦三二型(二号戦)である。高度四千五百メートルで二百八十八ノット(時速約五百三十三キロメートル)から高度六千メートルで二百九十四ノット(時速約五百四十四キロメートル)へとわずかに向上している。

 また、主翼面積が小さくなり横転性能がよくなった。機銃の弾倉も片側六十発入りが百発入りに改良された。しかし、燃料タンク容量が少なくなった分、航続距離が短くなった。格闘戦よりも高速での編隊空戦に向いていて、特に基地上空に来襲した敵を追撃するには初動が早く有利であった。

 また、高速時の横転操作が軽快なのでいいと小福田租(みつぎ)大尉も「戦訓による戦闘機用法の研究」にまとめている。ただし、角型に切り落とした翼端は空力的に問題があるとされ、翼端を丸めることでのちの五二型へと発展する。

 一号戦(二一型)に慣れているベテランたちには二号戦は不評で、エンジンや胴体部分は新型のまま、航続距離を解決するため二一型と同じ翼幅に戻した二二型もこのあとすぐにラバウルへ送られる。この時期の六空には、一号戦、二号戦の機体が混在するようになっていく。

 七月十一日、六空に小福田租(こふくだみつぎ)大尉が飛行隊長兼分隊長として着任する。着任時に六空には零戦六十機、搭乗員百名くらいいたが、ベテランと若手に大きな差があったと小福田は記憶している。

 大半は若い搭乗員で、戦闘どころか戦地に無事連れて行けるかどうかの技量もない。標準的な編成であれば士官、准士官、下士官そして兵となる。ところが六空ではほとんどが戦闘機の飛練を終えたばかりの兵であった。本来なら空母で連れて行くべきであるが、練度が上がるまでとうていそれは望めない。練度を早急にあげなければならんと小福田は決意する。

 小福田は海兵五十九期で海軍航空隊の戦闘機搭乗員、隊長として活躍した。戦後は航空自衛隊の司令となり、小福田皓文(てるふみ)のペンネームで著書を残している。六空に着任した当時は三十三歳で、日中戦争での前線経験があった。また、教官や飛行実験部員を経験しており、のちに「紫電改」へと生まれ変わる水上戦闘機「強風」の審査を行っている。 六空の飛行隊長兼分隊長の後も、昭和十九年には海軍航空技術廠飛行実験部に再度転勤し、戦闘機「烈風」の開発や「反跳爆撃」の研究を行っている。この「反跳爆撃」を実戦部隊で指導するためセブ島に出向いた折、杉田のいる二〇一空も訓練に参加したのでこのときにも杉田と関わることになる。

 七月十四日、ミッドウェイ後の体制を立て直すため連合艦隊の編成替えが大規模に行われた。第一航空艦隊、空母「赤城」、「加賀」、「飛龍」、「蒼龍」、「祥鳳」などの航空部隊が消えて、空母を基幹とする第三艦隊や南東方面作戦を主務とする第八艦隊が新編成された。六空の属す第二十六航空戦隊も第八艦隊に所属することになる。

 七月二十五日、ミッドウェイ海戦で重傷をおった牧幸男大尉のかわりに、内部昇格で川真田勝敏中尉が分隊長になった。

 六空の幹部搭乗員は、飛行隊長兼戦闘機第一分隊長小福田大尉、第二分隊長宮野大尉、第三分隊長川真田中尉、偵察分隊長美座大尉である。空母「蒼龍」に乗っていて負傷し、治療中の森崎予備少尉は飛行長附となった。

 前述したようにもともと六空には中核となる下士官搭乗員が少なく、搭乗員のほとんどが経験の少ない兵で構成されていた。それがミッドウェイ開戦後にはさらに下士官が少なくなっていた。

 同日、トラック島で第四艦隊司令長官井上成美中将と第八艦隊司令長官三川軍一中将の引き継ぎが行われた。その際、連合国軍によるソロモン群島や東部ニューギニアへの反攻はまだ先のことであろうという見解が伝えられた。実際、米軍は主力艦を欠いた上に数少ない空母も疲弊しており、常識的には軍の立て直しが必要な状態だった。しかし、米軍の強さは困難な状況におけるタフさであり、日本軍側の見立ては誤っていたことがガダルカナル島攻防戦で示されることになる。

<参考>

note 零戦32型

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