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杉田庄一ノート73 昭和19年12月〜20年2月、『紫電改』での訓練

 紫電改に乗って松山に向かった菅野大尉は、日帰りのはずが翌日の昼頃になってようやく帰ってきた。「松山はええぞ!」・・・飛行場近くの土地の名士の大西さんという方から歓待されてずいぶん気に入ったようだった。菅野大尉が志賀淑雄飛行長に提案すると、たまたま601航空隊がフィリピン方面に転進したばかりで飛行場があいていたのと瀬戸内海や九州が近く地理的条件も良かったのでそれならいいということで急遽松山を基地にすることになった。

  戦闘301隊は菅野直(海兵70期)と杉田庄一(丙飛3)ほか日光安治(甲飛10)、笠井智一(甲飛10)、酒井哲郎(甲飛10)、新里光一(甲飛10)、飯田一(甲飛10)、米田伸也(甲飛10)、山本精一郎(甲飛10)の9名でスタートした。その後、フィリピンの戦地や内地の各隊から順次搭乗員が集まってくる。浅間六郎(甲飛11)、大森修(甲飛11)、西村誠(甲飛11)、伊沢秀雄(特乙1)、深谷喜一(特乙1)、桜井和彦(特乙1)、沖本堅(丙飛14)、そして、宮崎勇(丙飛2)などである。そのほかに整備関係や事務関係の隊員も松山に集まってきた。(この部分、敬称を略)

 12月25日、松山基地において343航空隊が正式に開隊する。久邇宮朝融王(海兵49期)の命名で戦闘301隊は『新撰組』とされた。
鷲淵隆大尉の戦闘701飛行隊は宮崎基地から松山基地に入り『維新隊』と命名される。林喜重大尉の戦闘407飛行隊は出水基地から松山基地へ入り、『天誅組』と命名される。偵察第4飛行隊は『奇兵隊』と名付けられた。

 12月中頃から訓練が始まったが、まだまだ『紫電改』は充足していなかった。訓練はもっぱら『紫電』で行われ、『紫電改』は奪い合いになった。訓練がはじまると死亡事故が続けておきた。


 最初の事故は、12月20日に起きた。兵庫県鳴尾にある川西航空機の整備工場からできたばかりの『紫電改』を空輸するときに高度不足のために飛行場西側の堤防に激突して武谷繁(丙飛7)という若い搭乗員が殉職した。一週間後に酒井哲郎上飛曹(甲飛10)が松山飛行場から15キロほど離れた青島上空で『紫電改』による特殊飛行をおこなっているときに背面錐揉みからもどせないまま海面に突っ込んだ。背面錐揉みは、『紫電改』の飛行特性上の欠点の一つとされていて、いったんそうなると回復不能になるといわれていた。機体は大破し、遺体はみつからなかった。その二日後の29日にも着陸時にエンジンが止まる事故で中袴田哲郎少尉(13期予備学生)が意識不明の重体になり、2時間後に亡くなった。翌30日は、越智理吉上飛曹が『紫電』で特殊飛行訓練後の着陸時にやはりエンジンが止まり飛行場付近の海に墜落した。年が改まって昭和20年1月1日、初飛行をかねて讃岐の金毘羅宮へ上空から武運長久の祈願をおこなうことにした。朝からの粉雪まじりの悪天候の中、菅野を含めて8名で雪の中を編隊飛行をおこなって参拝した。1時間ほどで参拝をすませて戻り、着陸時の地上滑走中に飯田一上飛曹(甲飛10期)の乗った『紫電』が右にふられた。すぐさま左ブレーキをかけると機体はひっくり返り、頭がつぶされた。

 戦闘301隊は、10日間で五人も殉職者を出したが菅野隊長は訓練の手をゆるめなかった。事故の翌日の2日は特殊飛行に35機、離着陸に12機、3日は編隊飛行に28機、特殊飛行に9機の訓練が行われた。4日の編隊飛行は69機だった。そして、1月5日には、部隊主催の海軍葬が行われた。訓練はますます厳しくなり、以後も事故は続いたが殉職者は出なくなる。練度があがってきたのだ。

 先発して訓練をはじめた戦闘301隊につづいて、戦闘407隊や戦闘701隊の訓練も激しさを増し、次第に編隊飛行訓練に絞られていく。各隊に競争意識が生まれ、錬成のピッチがあがる。特に地上で多くの者が見ている前で行う編隊離陸は、派手さだけでなく気持ちの上でも盛り上がり、一種のコンペティションのようになっていた。この頃の訓練について、志賀淑雄飛行長が『三四三空隊』に記載している。


 「勇壮そのものの編隊離陸では、各飛行隊が如何にして早く集合するかを密かに競い工夫する姿が見られた。それ等は司令と各隊長の間でガッチリ統一された思想の下に、それぞれの性格なりに統率された各飛行隊の闘志と若さによるものであり、また一つには松葉、宮崎、大原、本田、堀(三上)、田中、指宿、成信、下鶴、杉田等各老練パイロットが若い隊長、分隊長にピッタリと従って若い搭乗員を指導し叱咤したためであった。」・・・(三四三空隊史)
 老練と書かれているが、このとき杉田は20歳であり、若手の多くは甲飛10期だったので18歳である。年齢ではない戦闘時間というスケールが彼らにはあったのだ。どれだけ命をかけた戦(いくさ)の場数を踏んでいるかである。そういう意味から言えば、杉田はまちがいなく老練であった。

 杉田の訓練について、杉田区隊だった田村恒春氏が『三四三空隊誌』に書いている。杉田区隊は、杉田が一番機、杉田の一番弟子の笠井氏が二番機、三番機は宮澤二飛曹、そして四番機が新人の田村飛長であった。杉田と宮澤二飛曹がペアを組み、笠井氏と田村氏がペアを組み、ペア同士は絶対離れず、つぎに区隊の4機が離れないフィンガー4と呼ばれる編隊の基本型を徹底的に訓練した。文中のS少尉とは、坂井三郎氏と思われる。
 「区隊編成が決まってからの杉田区隊の訓練は実戦以上のもので、二対二の編隊空戦訓練から始まり、急上昇、垂直旋回、急降下、宙返りと、私は笠井兵曹に離れぬよう早め早めにスロットルを操作しても時々離れ、地上で見ていたS少尉にお叱りを受けたが、杉田兵曹、笠井兵曹は何もいわずに指導してくれました。
 編隊訓練時スピード計をよく見ましたが、常時三百節から三百四十節くらいを指しており、耳鳴りがし翼端から飛行雲が出ているのが常でした。二機対二機、四機体四機、八機対八機、十六機対十六機の編隊空戦も会得し、二十四機の編隊離陸もできるようになりました」

 二番機の笠井氏も『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)の中で編隊訓練に触れている。
 「訓練が終わり、兵舎に戻ると『愛する列機来い!』と杉田上飛曹からお呼びがかかる。まずは背中を掻き、その後は肩もみだったが、その日の訓練の修正点を指摘し、技術的な指導をしてくれた。私は経験豊かな搭乗員にそれまで何人にも接したが、包み隠さず操縦・空戦技術を教えてくれたのは杉田上飛曹だけだった。それが後にどれほど役にたったことか。私が今こうしてあるのも、杉田上飛曹の薫陶の賜物だと思っている。」 
 また、『三四三空隊誌』にも、次のように記している。
「彼は菅野隊長の絶対崇拝者であり、誰からもこよなく愛され頼られ、実戦を生かしたよき助言者でもあった。また、『杉さん』の愛称で親しまれていた。飛行作業が終わって兵舎に帰えると必ず『愛する列機来い』とお呼びがかかる。今日の訓練の注意かと思えばさにあらず。当時流行の疥癬(皮膚病)の掻き方と肩揉みである。訓練飛行ではいきなり編隊離陸と編隊宙返りである。必死になってついていったことを覚えている。なにかにつけてきびしかった。」

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 写真は杉田区隊(左から宮澤、杉田、田村、笠井)

 志賀飛行長の感想を碇氏が『最後の撃墜王』(碇義朗、光人社)にまとめている。「兵学校62期、日中戦争が勃発した2ヶ月後に飛行学生を終えた志賀の時代は、先輩がたくさんいて、なかなか実戦に参加させてもらえなかった。戦争にも余裕があった当時は、志賀たちのようなヒヨコは訓練でみっちり鍛えられ、それから少しずつ実戦に慣れさせるという慎重な方法がとられた。しかし、いま眼前で見るパイロットたちの多くは、明らかに違ったものを持っているのを志賀は感じていた。
 『それは充分な訓練を経て入っていた我々の時代と違って、翼が生えるか生えないかの姿で戦場に投入され、闘志と若さで戦場を乗り切り、体験し、戦雲に恵まれて銃火の洗礼の中で育って来た若者の姿であり、これからも同じ道をたどっていこうとするパイロットたちであった』」 

 志賀飛行長は、それまで横須賀海軍航空隊で『紫電改』の審査にあたっていたテストパイロットであり、操縦技術は群を抜いていたはずであるが、343航空隊の飛行長になったときに自ら操縦するのを止め、裏方に徹する決意をしている。
 「『何も言うことはない。・・・彼等が飛びやすいようにひたすら努力する現場監督に徹するに如かず』と心に決めていた」
 戦場を生き抜いてきた『老練』の搭乗員をみてのことだった。末期には343空の搭乗員がいなくなり、再び操縦訓練をはじめたところで終戦をむかえることになるのだが。

 1月には戦闘701隊に坂井三郎少尉も加わってきた。当時からラバウルの撃墜王として名前は知れていたし、大村練習航空隊で指導教員としても有名だった。しかし、ガダルカナル戦で負傷した片目の視力はほぼ失われており、もっぱら若手の指導にあたっていた。碇氏は坂井氏について次のように記述している。

 「坂井に対する旧搭乗員仲間の評価はいろいろだが、ある隊員が『戦闘701の飛行事故が他の隊にくらべて少なかったのは坂井さんの上手な指導のおかげ』といっているように、源田がベテラン坂井に期待したのも、むしろそうした貢献にあったのではないか」

『旧搭乗員仲間の評価』というは、戦後、『大空のサムライ』で世界の撃墜王として売り出したことに関して事実と異なることが多いという仲間の評判のことであろう。坂井氏については、確かにいろいろと評判がついてまわっている。碇氏が『最後の撃墜王』を書いた時はまだ坂井氏も存命であり、シンパともいうべきファンもいたのでかなり遠慮した書き方になっているのだろう。文の終わり方にも忖度がうかがえる。しかし、神立尚紀氏も志賀淑雄飛行長から辛辣な話を聞いていて、坂井氏と武藤少尉と杉田にかかわるエピソードとして『祖父たちの零戦』(神立尚紀、光人社)にまとめている。坂井氏と杉田の話は単に若手指導のことにとどまらないのだ。以前のnote「杉田庄一ノート57 昭和19年1〜3月『大村航空隊と坂井三郎』」にも記したが、今後の343空の動きに関係するので少し長くなるが、以下に抜粋する。

 「志賀が、紫電改を主力に編成された三四三空の飛行長を務めていた昭和二〇年春、坂井少尉は、三四三空の指揮下にある戦闘七〇一飛行隊の分隊士であった。右目の視力を失った坂井を空戦に参加させるわけにはいかないので、志賀は坂井に、若い搭乗員に地上で実践体験を教えさせることにした。
 ところが、坂井の空戦講話は、若い搭乗員から不評だった。三四三空には実践経験の豊富な搭乗員が多く、『若い搭乗員』といっても、マリアナやフィリピンでの激戦をくぐり抜けてきた者が主力となっている。米軍機、ことにグラマンF6Fの手ごわさを骨身に感じている彼らにとって、ガダルカナル戦初日で重傷を負い、内地にさがった坂井の実戦談は、はやい話が昔語りであった。坂井は、若い搭乗員を鍛えようと思って彼らにきびしく接し、ときに鉄拳を飛ばすこともあったが、坂井の思いと搭乗員たちの思いは噛みあわず、反感を抱かれただけに終わった。
 なかでも、坂井に強い反発を露わにしたのが、三四三空戦闘三〇一飛行隊の杉田庄一上飛曹である。昭和十八年四月十八日、山本五十六聯合艦隊司令長官戦死の際、長官機の護衛にあたっていた六機の零戦搭乗員の一人であった杉田は、同年八月二十六日、ブイン上空の邀撃戦で被弾、空中火災を起こし、からくも落下傘降下したものの全身火傷の重傷を負った。その後、大村海軍航空隊の教員配置を経て第一線に復帰し、マリアナ、ペリリュー、フィリピンの激戦を戦い抜いてきている。
 杉田は若干二十歳だが、火傷の痕も生々しく、歴戦に裏付けられた自信に溢れ、あたりを払う殺気をみなぎらせていた。杉田と坂井は、大村空でしばらく一緒だったが、自分より若い搭乗員をことごとく「ジャク」(未熟者)よばわりする坂井のことが、杉田は嫌いであった。杉田に言わせると、坂井は敵のまだ弱かった頃のことしか知らない、坂井が負傷して内地に帰ってからの戦いのほうが大変だったのだ。
 年齢は坂井のほうが八歳も上だが、杉田には、強くなってからの米軍戦闘機を相手に勝ち続けてきたという誇りがある。プライドがぶつかりあって火花を散らし、三四三空でふたたび一緒になってからも、この二人は水と油のままであった。」

 戦後、坂井氏は旧零戦搭乗員たちとうまくいかなくなり、「大空のサムライ」を出版してからはますます距離をとるようになる。坂井氏の「大空のサムライ」は確かにガダルカナル戦開始時までの話が詳細に書かれているが、それ以後の大村空、硫黄島での話はあまり詳しく書かれていない。343空についてはまったく触れていない。戦った敵機もカーチスホークやエアコブラなど、零戦より劣っていると言われた飛行機ばかりだ。杉田の戦った相手はグラマンF6F戦闘機やB24などの大型爆撃機で、零戦は劣勢に立っていた。「大空のサムライ」には、杉田のこともわずかに記載されているが、一年時代が違っている。大村時代にともに表彰されたという話もあるのに、杉田の話はあえて避けているようである。また、坂井氏は杉田が鹿屋基地発進時に戦死したときに「あぶない」と言ったとインタビューで語っているが、その場にいた笠井氏など他の同僚の記述した資料には坂井がそこにいたという話は出てこない。他にも、零戦について最高だったのは21型(初期型)だったといい、紫電改は空戦に使えない失敗作とも記述している。つまり、古い空戦の型しか語るべき内容をもっていなかったと思えるのだ。高速での編隊空戦でアメリカの戦闘機や大型爆撃機と戦ってきた杉田にとっては、おそらく時代錯誤の話だったに違いない。そんな話を聞かされ、殴られている若い連中を思うとがまんできなかったのだろう。上下関係のきわめて厳しい海軍で、杉田はずっと歳上の特務少尉である坂井に対して正面きって文句を言ってたので、志賀飛行長も無視できなくなった。

 「杉田は、坂井がガダルカナル上空で負傷し、意識朦朧とした状態でときに背面飛行をしながらラバウルに帰ってきたという話を聞かされて、『零戦は正しく整備・調整されていれば、たとえ手を離して飛んでも、上昇、下降を繰り返してやがて水兵飛行に戻る。意識を失って背面状態に入り、それが続くなんてことはない。だいたい、意識がないのにどうして詳しい状況が話せるんだ」と憤慨した。

 杉田には、それだけのことを言える根拠もあった。六月末にグアム島からペリリュー島に脱出する際、グラマンと戦闘になり編隊の他の機が全て撃墜されたのにただ一人生き延び、計器が壊れている零戦で500km近い単独洋上飛行を行なって生還している。しかも、このときの零戦そのものが、壊れた零戦の部品を寄せ集めて作られたものだったのだ。

 「あんなインチキなこという奴はぶん殴ってやる」
と公言し、不穏な空気は飛行長の志賀にも伝わってきた。志賀は、自分の部下はどちらも可愛い。しかしこのままではいけない。三四三空でもっとも頼れる戦力の一人である杉田が、上官暴行の罪を犯したとなると、その損失ははかりしれない。本人たちだけでなく、まわりの隊員に与える影響も大きいだろう。
 搭乗員の人事は飛行長にある。志賀は考えた。坂井か杉田か、どちらかをよその部隊に転勤させないといけないが、残すとしたら、空戦に使える杉田のほうを残したい。しかし、古参搭乗員である坂井の面子を潰すわけにいかない。
 それで思いついたのが、横空へ坂井を転勤させ、代わりに誰か、空戦に使える搭乗員をもらい受けるという方法である。転勤先が海軍航空隊の名門・横空なら坂井の顔も立つだろうし、これまでの経験を飛行実験に生かすこともできるだろう。杉田との問題も解決できる、一石二鳥である。」

 ということで、志賀飛行長が考え出したのが、坂井氏と当時横空にいた武藤金義飛曹長のトレードだった。武藤飛曹長は、坂井氏と同じ二十八歳の古参搭乗員。「空の武蔵」という言われる撃墜王だった。中国戦線から戦っており、太平洋戦争開戦時から前線で戦い続け、現在は横空でテストパイロットをしている。ただ、坂井氏との交換は、横空分隊長の塚本祐造大尉から当然ながら猛反発を受け、頓挫した。しかし、この話は消えたわけではなく源田司令の中にもしまわれていて、杉田が戦死した後で杉田の代わりにどうしてもと司令が動いて実現することになる。


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