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杉田庄一ノート64 昭和19年グアム島脱出

 グアム島は、サイパン島と同じく『絶対国防圏』の最前線要衝であった。サイパン島の戦いが昭和19年の6月15日から始まり7月9日で一応決着がつくと、次はグアム島にアメリカ軍の矛先が向けられる。7月21日に上陸が開始され、 8月11日の日本軍総攻撃で終了する。2万2500余名いた日本軍は、最後の総攻撃時には300名足らずしか残っていなかったという激戦であった。制空権も制海権も奪われていたため、艦砲射撃や空爆によって日本軍は苦しめられるが、夜戦や白兵戦による肉団攻撃で対抗した。アメリカ軍は、圧倒的な強さで勝利したが、死を恐れず攻撃してくる日本軍への恐怖をもつことになり、このあとの硫黄島や沖縄への戦術に影響を与える。また、先住民であるチャモロ族への日本軍による虐殺事件なども起きている。

 杉田庄一は、マリアナ海戦をグアム島で戦った。杉田の所属するグアム島の基地航空隊は、連日のアメリカ軍機の空襲に対して邀撃にあがるが、とうとう稼働する零戦がなくなる。6月28日、搭乗員だけでも脱出させようということで、一式陸上攻撃機による最後の飛行が行われる。笠井智一氏ら5人がこの最後の飛行で脱出するが、杉田は搭乗していなかった。

 実は、グアム島の基地に残された基地整備員たちが動かなくなっていた零戦を必死で修復していた。壊れた零戦の部品を集め修復された零戦は4機、3人の士官搭乗員と下士官の杉田が搭乗し、ペリリュー島に向かうことになっていたのだ。

 笠井氏たちが脱出して数日後に完成し、出発する。一番機は、重松大尉、二番機は毒島中尉(予備学生11期)、三番機は田中少尉で、杉田が四番機となり仮の編隊を組んで飛び立った。ところが、ヤップ島付近でグラマン多数機と空戦になり、杉田を残して3機は撃墜されてしまう。杉田機も損傷を負うが、追撃を振り切って勘を頼りに数百キロメートを単独洋上飛行をつづけて、無事ペリリュー島に着陸した。笠井氏が杉田のところに駆け寄って操縦席を覗くと、計基盤がぐちゃぐちゃに破壊されていて驚愕する。こんな状態でよく単独洋上飛行をおこなってきたのかといまさらながらに杉田の技量に言葉を失った。

 このエピソードだけでも十分に物語になりそうであるが、残念ながら笠井氏の残した記述しか資料を探し出すことはできなかった。


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