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杉田庄一ノート72 昭和19年12月、343空戦闘301隊(新撰組)誕生

 笠井氏は、特攻隊を志願したが新任務のために内地に返され(以前のnoteに記載)、12月1日に横須賀に到着する。司令部に報告に行くとその場で「菅野大尉は木更津(木更津航空隊)にいるからそちらへ行け」と指示され、内火艇に便乗して移動する。木更津に着くと、菅野大尉は横須賀に行ったと言われ、追いかける形で横須賀に戻りようやく再会できた。菅野大尉から、「よく帰ってきた」と声をかけられる。横須賀にはすでに各地から搭乗員が集められていて、252航空隊に編入された。

 252空に所属しての新しい任務として言われたのが、『紫電』による『マル大』の直掩任務だった。『マル大』というのは、特攻専門機『桜花』のことで一式陸上攻撃機に懸垂して敵艦上空まで運び、そこからロケット推進で敵艦に突入する秘密兵器だった。笠井氏たちは、菅野大尉に頼んで実際に一式陸攻に懸垂されている『桜花』を見に行った。着陸装置などはなく、一度発進したら生還は期さない構造である。先端部分に1トンの爆薬を積んでいる人間が操縦するミサイルと考えればいい。ただでさえ足の遅い一式陸攻に乗せ、敵上空まで辿り着けるのか、仮に目標に到達したとして小さな翼のロケット推進機で本当に特攻が可能なのかと懐疑的だった。

 さっそく『紫電』の訓練がはじまる。横空(横須賀航空隊)審査部古賀一(はじめ)大尉が指導者になった。古賀大尉から『紫電』の操作の説明や性能などの詳細説明を受け、離着陸などの訓練が始められる。この頃のことを笠井氏は次のように述べている。

 「初めて間近に見る紫電はずんぐりした中翼、脚は二段引込式、なんと四枚羽プロペラでエンジンがいやに大きく、翼には二十ミリの銃身が四本もつき出ていて、見るからに強そうな印象を受けた。ただ胴体はかなりオイルで汚れていたので、ハハァこれは油圧系統に問題があるな、と直感した。思ったとおり脚の出ないもの、ブレーキの不調、空戦フラップの作動不良など油圧系統の故障が多く、搭乗員や整備員が泣かされた。
 それはともかく、虻を思わせる紫電の姿に、だれかが隊長によく似ているなあといったので一同大笑い。隊長も怒るわけにもいかず、苦笑するばかりだった。
・・・・これまで乗り慣れていた零戦がいやに弱々しく感じられてならなかった」

 零戦に比べ操縦席が広いので「操縦席で宴会ができるぞ!」という冗談も出たという。笠井氏は戦闘機搭乗員としては大柄だったので、ありがたかったと書いている。

川西航空機『紫電』(通称J)

 『紫電』(通称J)での訓練がはじまって一週間過ぎた頃、訓練前の整列時に菅野隊長から「状況が変わってわれわれは新設の第三四三海軍航空隊の戦闘三〇一飛行隊として制空の任務につくことになった」と訓示があった。この343航空隊は軍令部参謀の源田実大佐の考え出したものだった。

 源田大佐は、戦前から航空主兵論をとなえ、真珠湾攻撃の航空作戦もたてており、日本の航空作戦をずっと立案する立場にあった。この時期には制空権をうばわれたことが負け続けている原因と考えるようになっていた。なんとしてでも強い戦闘機隊をもって敵をひるませることができれば、そこを突破口にできると考えた。そこで作り上げたのが対戦闘機専門の343航空隊(二代目)の構想だった。

 司令は源田大佐が自らやる。飛行長には、『紫電改』を審査して育ててきた滋賀淑雄少佐(海兵62期)、副長は中島正中佐をあてた。戦闘隊を三つおき、各隊長の選抜も自分で行う。まずは、菅野直大尉(海兵70期)で戦闘301飛行隊をあずける。林喜重大尉(海兵69期)には戦闘407飛行隊、鷲淵孝大尉(海兵68期)には戦闘701飛行隊。さらに新構想として偵察専門の飛行隊を用意し、隊長を橋本敏男大尉(海兵66期)とする。戦闘機は『紫電改』、偵察機は『彩雲』を使う。各隊には、前線で実績をあげている搭乗員を核として配置し、若手で優秀な者をつける。偵察機を戦闘機隊と組ませるのは、航空での戦いが情報戦に入っていることを痛感したからである。同様の理由で航空無線も最高のものを用意する。構想通りに源田大佐は強引にそろえていく。

 航空無線については、零戦ではほとんど役に立たず、搭乗員同士は指信号で合図をとっていた。陸軍の戦闘機ではあるていど空中通話ができたとされているが、海軍の航空無線はだめだった。陸軍と海軍の間のコミュニケーション不足も気になるが・・・。空中戦が一機対一機のものから編隊空戦にかわり、しかも、レーダーによって敵飛行機を遠くから追うこともできるようになると、空中にあっても刻々かわる敵情報を共有したり、編隊のフォーメーションを連絡したりと空中無線での通話が重要性を増す。343空では、指揮通信網の整備に力を入れた。基地と戦闘機隊、戦闘機同士の意思疎通がうまくできるように無線の改善に力を入れたのだ。具体的には、エンジンプラグの放電を抑えることでノイズを除去することで交信能力が大幅に改善した。
 松山から大阪、大津、名古屋くらいまで明瞭に交信可能だった。しかし、空中で指示を出すのは区隊長とされていて、菅野隊長が使うときは「菅野一番」、杉田上飛曹が使うときは「杉田一番」と名乗った。二番機以下も発信できたが、通話が錯綜するのでめったに使うことはなかった。空中電話は、発信後にスイッチを「受信」に戻さないと、すべての受発信が塞がれる構造だった。スイッチ切り忘れによるめいわく事故がおきて、訓練後に隊長に「だれか切り忘れたろ」と怒られ、みなが顔を見合わせとぼけることもあった。と、笠井氏は『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)に書いている。

 菅野大尉の訓示と同じ12月中旬、オレンジ色に塗られた『紫電改』(通称J改)の試作機が一機だけ用意された。まだ試作機であるが、これを使ってすこしでも早く『紫電改』に慣れさせようと用意されたものであった。はじめて『紫電改』をみたときの笠井氏の記述である。

 「おう、これが紫電改か!」
 「これはすごい飛行機やな!」
 などと観察しながら新鋭機の誕生をみなで喜びあった。紫電改にしてからは、訓練が紫電のときだと、「なんだ、今日はJ(紫電)か」とがっかりするほど格段に性能が上がっていた。
 われわれにこの戦闘機があれば、グラマンに負けない、絶対に負けないと確信した。絶対勝てると自信が湧いた。この試作機をみなで操縦するのが楽しかった。当初、試作機は一機しかなかったので順番待ちのときは待ち遠しく、降りてきた戦友に「おい、こらお前、時間がすぎてるやないか!」などと言い合ったものだった。

 12月下旬、横須賀航空隊上空にB29が偵察に現れる。すぐに『紫電』6機と試作機の『紫電改』で迎撃にあがる。笠井氏は、『紫電』に搭乗した。B29は1万メートルを超えて飛んでいる。『紫電』も『紫電改』も全速で上昇するが、なかなか追いつけない。猛烈な寒さで手足がしびれるように痛い。オイルも凍結してランプが赤に変わる。翼端から飛行機雲を走らせながら房総半島上空1万300mまで上昇してあきらめた。攻撃を断念した笠井氏は、せっかく上空にあがったので20mm機銃4門の試射をしてみる。「ドッドッドッ」という零戦では感じられなかった強い衝撃にあらためて頼もしさを感じた。1万メートル以上で見える風景はまったく違っていた。房総半島上空であるが、日本海から朝鮮半島の一部まで見えた。成層圏に達していたのだ。これもまた零戦ではなかなか味わえないものだった。

 『紫電改』は、零戦の二倍の2000馬力エンジンを積んでおり、グラマンF6Fに負けなかった。主翼や胴体内のタンクは防弾されており、操縦席には防弾版が配置されていた。最高速度は644km/hとなっていたが、急降下時に800km/h近くまで達することがあっても壊れなかった。しかし、それ以上の速度(亜音速)まで達してしまい空中分解したと思われる事故もあった。これは戦後まで原因不明だった。速いだけでなく、自動空戦フラップを装備しており、あなどれないスタントができた。笠井氏は、離陸や空戦中にエンジンをフルスロットルにするとすさまじい加速をしたと語っている。戦後にアメリカ軍がもってかえり、オクタン化の高いガソリンを入れてテストしたらP-51(第二次対戦時の最高と評価された戦闘機)と同等かそれ以上という評価を得ている。


川西航空機『紫電改』(通称J改)

 『紫電改』は次期海軍主力戦闘機として指定され1万機以上の生産計画がたてられたが、すでに資材や工員が不足している上、工場への空襲などで実際に生産されたのは400機だった。そのほとんどが川西航空の鳴尾工場製であったが、一部姫路工場でも生産された。姫路工場で作られ、海軍航空隊鶉野飛行場(現加西市)から運ばれてきた『紫電改』は「川姫号」の愛称で呼ばれた。笠井氏は鶉野の近く、兵庫県の篠山(現丹波篠山市)生まれで思い入れもあった。著書でも「川姫号」について触れている。2014年に鶉野飛行場資料館が地元有志の手で作られ、2019年に実物大の紫電改の模型も展示された。この紫電改は笠井氏の搭乗機として塗装されており、笠井氏自身も生前にここに訪れている。(昨年、私も館長さんからメールをいただいているのだが、コロナ禍のためにまだ行けずにいる)

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紫電改と笠井氏

(2020/7/16 06:20神戸新聞NEXTから)

 横須賀航空隊は、海軍鎮守府にある日本最古の伝統ある航空隊であり、実用機開発部門と搭乗員養成部隊があり、この頃は首都防空任務もあたえられていたため飛行場が手狭だった。343航空隊はこれから人数が増えていく予定だ。菅野大尉が「どこかにいい基地はないかな」と口に出すと、笠井氏は「そりゃ、松山がええですよ」と答えた。「私は延長教育が終わって最初の実施部隊で松山にいたことがありますが、飛行場は広くてええし、人間もええ人たちばかりで、ご馳走してくれます(笑)」「そうか、よっしゃ!」というやりとりで菅野大尉は松山に視察に向かった。

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