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杉田庄一ノート82 戦後の顛末

 終戦直後に、源田司令は士官以上に自決の覚悟があるかどうかを試した上で、皇族を343空士官で宮崎県の山奥にかくまうという極秘計画『皇統護持作戦』を行っている。実行するまで、民間に潜んで実行するという計画で、最終的にその計画が解かれたのは昭和56(1981)だったという。

 昭和52年(1977)7月23日、靖国神社で『第三四三海軍航空隊慰霊祭』が行われ、九段会館で懇親会が開かれた。そこでの源田司令の挨拶が、『三四三空隊誌』の巻末にそのまま載せられている。型通りの挨拶が進み後半になって思い出を語る頃から込み上げてくるものがあったのだろう、源田司令は言葉を詰まらせながら挨拶をおこなっている。テープ起こしでその一言一句が記録されていて、そこで杉田のことが語られる。

 「洵に私は当時のこの隊員の優先奮闘に、全く頭が下がる思いでございます。
 ところがこうして、本日ご遺族の方々のお顔を……(暫し絶句)お顔を見ておると……(絶句)
 私が!……もっとしっかりしておれば!……これほどの犠牲を……払わなくても済んだ!……と思うのです。私の指導がまずかったために!……考えてみれば!……何十人かの余計な人を殺してた……
 ご遺族の方々の……お顔を見ておると!……全く、自責の念で一杯で……なぜもっとしっかりしてなかったのだ源田は……
 例えば杉田庄一君!私の危機感がもっと早かったならば、彼だって!殺さなくて済んだ………」

 このあと林喜重大尉と菅野大尉のB-29撃墜に関するエピソードが語られるが、やはり言葉につまっている。その後、広島と長崎の原爆の話になると言葉もスムーズに流れるようになってくる。源田元司令は、たくさんの戦死者を出した中で、杉田の戦死には特に強く責任を感じていたのだろう。

 このとき参加していた笠井氏は、まっさきに杉田の名前が出てきたことに感極めていた。しかし、肝心の遺族がいない。「何故?」、笠井氏は志賀淑雄氏(元飛行長)に尋ねると、杉田の母親イヨさんは杉田の弟の住んでいる大阪方面に転居したらしいという情報を得る。8月14日お盆の前日、笠井氏はもらった情報をたよりに豊中市の井部正昭氏(杉田の弟さん)宅にいるイヨさんを探し出した。杉田に呼んでもらえたと感じた。「庄一は内地で戦死したのに遺骨がないのはどうしてなんだろうか。自分が元気なうちにせめて庄一の戦死した地を訪れたい」という話を聞く。笠井氏はすぐに源田元司令に連絡し、相生元副長、志賀元飛行長らの尽力で翌年(昭和53年)に鹿屋基地跡(現海上自衛隊基地)を慰霊訪問に訪れることになった。7月1日、杉田の誕生日に合わせて笠井氏、イヨさん、弟さん2人の4人で鹿屋基地にでかけた。自衛隊の司令官や隊員たちの手厚い世話で慰霊祭を実施している。また、基地近くの国立療養所敬愛園の中にある宮沢二飛曹(杉田と同時に戦死した)の慰霊碑にも慰霊を行なっている。笠井氏の杉田への敬愛の執念ともいうべきエピソードだった。

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 昭和53年(1978)7月、宮崎県志布志湾の枇榔島付近で紫電改のエンジンが発見され、引き上げて慰霊碑をつくることになる。

 同年12月14日、宮崎県門川町に『太平洋戦争日向灘空域戦没者慰霊碑』が建てられ慰霊祭が行われた。

 前後するが、11月28日に愛媛県の宿毛湾に紫電改が沈んでいるのが発見される。

 昭和54年(1979)7月14日、紫電改が引き上げられる。多くの取材陣が集まり、ヘリコプターやセスナ機が飛んでいて、参加した志賀元飛行長は「危いなあ」とつぶやいていた。機体が吊り上げられている時、セスナ機が失速し水没する事故がおきる。

 現在、この紫電改は愛媛県愛南町の『紫電改展示館』に展示されている。詳細は、「杉田庄一ノート13:令和3年7月23日〜紫電改展示館に行ってきた」に詳しく記した。

 所在地は、愛媛県南宇和郡愛南町御荘長洲304南レク馬瀬山公園である。

 この『紫電改展示館』の正面の小さな公園に吊り上げ取材中に殉職した2人の記念碑もある。


 令和元年(2019)、上越市在住の木村初雄氏が『杉田庄一』のことを知り、独自に取材をはじめる。関係者から話を聞き取り、杉田のおいの杉田欣一氏を訪ねあて、『杉田庄一の実績を伝承する会』を発足させ、4月15日に生誕地にある墓碑の前で慰霊祭を行う。12月、石野が会顧問に招聘される。

 令和3年(2021)、同会は慰霊碑を作るための募金活動を始める。7月1日、生誕地に『杉田庄一の碑』を建立した。

顕彰碑写真
顕彰碑碑文


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