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杉田庄一ノート20:令和3年7月24日〜松山飛行隊跡地に行ってみた

 愛媛県松山市にある松山空港は海軍航空隊松山基地だった。その痕跡が空港周辺に散在する。特に掩体壕がいたるところに今もひっそりと風景に身を隠している。

松山空港地図

空港から歩いてバス通りまで出ると道路の向こう側に小高い丘が連なる。そこに掩体壕が掘られたらしい。

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松山空港周辺に散在する掩体壕の跡

以下は松山市公式ホームページからの抜粋。
掩体壕は、軍用機を上空の敵機から守るために造られた格納庫で、太平洋戦争末期、全国の軍用飛行場に造られていた。昭和18年(1943年)10月に、松山海軍航空隊(北吉田町)と松山海軍航空基地(南吉田町)が設置されたあと、航空基地の飛行場付帯施設として南吉田・垣生両地区に掩体壕が63基造られる。戦後、そのほとんどは消滅したが、南吉田地区にはコンクリート造の有蓋掩体壕3基が今も残っている。
 この3基のうち指定した掩体壕は、幅23.1メートル、奥行き約12.25メートル、高さ5.12メートルを測り、主翼格納部の前部アーチと尾翼格納部の後部アーチの大小2つのカマボコ型アーチを合わせた形態で、戦後、農業用倉庫として使用され、ほぼ完全な形で残っており、松山海軍航空基地の歴史や悲惨な戦争を語り継ぎ、平和の尊さを伝える貴重な資料として重要である。

 ここには二つの海軍航空隊跡の碑がある。空港に近い側の予科練「松山海軍航空隊跡」の碑と少し離れたバス停前に建てられた「松山海軍航空隊跡」の碑である。この二つは別施設跡地である。予科練「松山海軍航空隊」は、予科練の所属した航空隊で教育用の施設である。北側にある「松山海軍航空隊跡」の碑は343空など戦闘部隊が使用した基地跡の碑である。

 北吉田町にある予科練「松山海軍航空隊跡」は空港から歩いて10分くらい(もっと近い道があるのかもしれない)の帝人正門へのアプローチ入り口にある。コンビニが目印だ。

 この碑を建てたのは甲種予科練14期(甲飛14期)の方達である。昭和19年に大量養成されたがすでに乗る飛行機はなく、操縦練習もままならずに他の特攻兵器要員とされた

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松山空港近く北吉田帝人前にある碑(2021.7.24)

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 そこから北の方に500mくらい歩くと基地跡に建てられた「松山海軍航空隊跡」の碑がある。これはかなり大きい。

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道路をはさんで向かい側にはうどん屋さんがある。

 私が訪れたのは令和3年7月24日である。76年前の昭和20年7月24日に米軍約200機を迎撃するため紫電改が約20機で発進。豊後水道上空で交戦となり6機が未帰還機となった。そのうちの一つが発見され現在紫電改記念館に保存されているのだ。とても暑い日であったが浜から吹いてくる風を強く感じることができた。



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