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杉田庄一物語その22 第三部「ミッドウェイ海戦」 アリューシャン作戦

 アリューシャン作戦に参加する六空別動隊は、宮野善次郎大尉を指揮官として、岡本重造先任搭乗員、尾関行治一飛曹、上平啓州一飛曹、神田佐治二飛曹、谷水竹雄一飛ら十二機が選ばれ佐伯基地に進出した。谷水は杉田と同じ飛練十七期(戦闘機)でこれまでペアで訓練していたのだが、年長でもあり海軍での経験も長いため別動隊に選ばれていた。隊員たちには、「目的地は南方方面」とだけ知らされた。
 佐伯基地では空母「隼鷹(じゅんよう)」、「龍驤(りゅうじょう)」の搭乗員が訓練をしていた。「龍驤」は小型空母であるが、昭和六年に進水し、すでに戦歴をもっていた。一方「隼鷹」は、サンフランシスコ航路に使う予定で建造中だった日本郵船の「橿原丸(かしはらまる)」を途中から空母に改装した艦で、これが初陣であった。六空の十二名は隼鷹飛行隊に合流した。

 「隼鷹」飛行隊長兼戦闘機分隊長は志賀淑雄(よしお)大尉で、これまでは空母「加賀」の先任分隊長だったのだが、艦長とぶつかることが多く、事実上の左遷のような転勤での配置だった。志賀淑雄は、海兵六十二期で結婚前の旧姓が四元、海軍兵学校時代は鉄拳をふるうことで恐れられたが、筋を通さないことには上司にもたてつく正義感の強い性格であった。志賀はのちに三四三空の飛行長となる。

 六空メンバーの大半は着艦訓練をやったことのないものばかりだったので空母搭乗員に零戦を託し、汽車で空母「隼鷹」の停泊する呉港に向かう。到着すると、「隼鷹」の格納庫にはすでに六空の零戦が空輸されていた。五月二十日に呉港を出発、日本海を通って北上した。谷水は南方に行くと聞かされていたのにおかしいなと思ったが、他の隊員たちもどこに行くかは知らされていなかった。出航二日目に艦長から搭乗員総員集合命令が出され、訓示があった。

「今回の作戦はミッドウェイ島攻撃の第一機動部隊「赤城」、「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」の支援のため第二機動部隊としてアリューシャンのウナラスカ島、ダッチハーバーの攻撃に向かう。わが隊はアッツ島、キスカ島へ上陸する陸海軍の輸送船団も支援し、上陸完了後は陽動隊として敵機動部隊を引きつけ、第一機動部隊の攻撃を容易にするためのオトリ部隊となる。作戦終了後ミッドウェイに向かい、六空戦闘機隊をミッドウェイに上陸させる予定である。なお攻撃日はN日とする」

 南方と聞かされていたのに、真逆の北方。しかも、アリューシャン列島はそのままアメリカ大陸につながる地である。ミッドウェイ、そしてアリューシャンと太平洋を股にかけた壮大な作戦に参加するのだ。隊員たちは心躍らせた。

 五月二十三日、六空別動隊を乗せた空母「隼鷹」は、本州最北端の海軍基地大湊を経由し僚艦「龍驤」や巡洋艦、駆逐艦、輸送船などと合流してアリューシャンを目指した。角田覚治中将を乗せた旗艦「那智」から「N日は六月三日」と連絡があった。深い霧が続く中を北に進むに連れて夜が短くなる。

 六月一日、六空別動隊の乗る「隼鷹」のマストに鷹がとまり吉兆だという騒ぎもあり、順調に戦闘圏に近づいた六月一日から戦闘機隊の上空哨戒がはじまった。

 ダッチハーバー方面で偵察活動を行なっていた伊号潜水艦が収容時に艦載機を壊したため、敵情報をつかむ手段が無くなってしまう。逆に米軍のコンソリデーテッドPBY飛行艇による偵察で日本軍側の艦隊の動きが知られてしまう。宮野大尉と尾関一飛曹で追撃したが、視界不良で逃してしまった。あいかわらず霧が深いままであった。

 六月四日、「隼鷹」飛行隊長の志賀淑雄大尉を指揮官として、第一次攻撃隊三十四機がダッチハーバー攻撃に向かう。雲中での飛行であったが、目標上空に雲の切れ目があり攻撃に成功する。六空からは四機参加している。午後にも同じく志賀大尉を指揮官として第二次攻撃が行われた。しかし、天候がさらに悪化し各機個別に帰還することになった。六空から参加した三機は搭乗員がベテランだったので全機無事帰還したが、途中霧中でさまよい未帰還となった機も出てしまった。

 「龍驤」からも攻撃隊が出撃したが、九七艦攻による水平爆撃はすべて目標を外してしまう。そこで戦闘機隊が基地上空を逃げるPBYを撃墜した後、直接基地に機銃掃射を行った。このとき、古賀忠義一飛曹が地上からの対空砲火で被弾し、ダッチハーバーから東に四十キロメートル離れたアクタン島に不時着をしようとして地上で転覆戦死した。

 後のことであるが、このとき古賀一飛曹が乗っていた零戦二一型はほとんど無傷のまま七月に入って米軍によって回収される。零戦は米国に移送され、徹底的に分析研究された。いわゆるアクタン・ゼロと呼ばれた機体である。零戦の弱点である「速度が二百ノット越えでエルロンが重くなること」や「高速時に操縦桿の操作に大きな力が必要になること」、「左へのロールの方がやりやすいこと」、「マイナスGがかかるとキャブレターが息をつきエンジンが停止すること」などが判明した。零戦との戦術もこれらをもとに研究され、格闘戦には急降下をもって対抗することなどが徹底されることになってしまう。

 六月五日、アリューシャンでの陽動作戦は二日目に入り、第三次ダッチハーバー攻撃隊が出撃した。同じく、この日の四時三十分に日本の機動部隊から第一次ミッドウェイ攻撃隊も発進している。

 六空の別動隊の宮野大尉と尾関一飛曹の二機が第三次ダッチハーバー攻撃隊に参加した。米軍のカーチスP-40トマホーク戦闘機と交戦し、宮野が一機、尾関が攻撃機を二機撃墜した。また、上空哨戒にあたっていた岡本一飛曹と上平一飛曹がPBY飛行艇をそれぞれ一機ずつ撃墜している。まだ攻撃隊に参加させてもらえず、機銃の弾帯づくりや電信室勤務を行なっていた若手の谷水たちは、六空のベテランたちの実力を間近に見て感激することになった。

 六月六日、アリューシャン作戦はキスカ島及びアッツ島の占領でおわった。ミッドウェイ作戦の敗北が知らされ、六空別動隊はミッドウェイに行く目的を失っていったん内地にもどることになる。

<参考>

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