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杉田庄一ノート104 「ラバウルの真実」(吉田一彦)

 吉田氏は神戸大学名誉教授で「情報論」が専門。情報と戦争に関する著書も多い。2022年に亡くなられているが、フェイクニュースやAIが情報発信する現代の情報戦争についてどんな感想を持っておられただろうか。

 この本は、英語がもう一つの専門である吉田氏がラバウルでの戦いを米国側資料と突き合わせながら独自にひも解いた本である。日本側の資料を読んでいるとどうしても偏りがあることは感じていたが、この本を読むことで「ははん、そうだったのか」と思うことが多い。

 日本軍は、負けるはずがないという驕りや情報の軽視、零戦無敵神話から抜け出せなかったのに対し、アメリカ軍はガダルカナル戦での経験を「壮大な実験場であり実習場」として位置付け、情報活動を行いシステム化していったという吉田氏の論がまず述べられている。

 「ガダルカナルの戦場に遺棄された日本軍の文書や、日本兵の戦死体から発見された命令書や地図、さらに戦死した兵士の日記なども綿密に調査されて、必要な情報が集まった。『これらの任務を果たすために米国政府が費やした労力は並々ならぬものであった。多数の米国人に訓練を施し、敵国語である日本語に精通するように仕上げたのだった。』日本語専門官と呼ばれる情報士官に活躍の場が与えられたのである」

 この日本語専門官の中には戦後、そのまま日本に住みついて戦後の日本文化を築いた方たちもいる。サイデンステッカーやドナルド・キーン、同志社大学のオーティス・ケーリが有名である。

 さて、杉田との関わりがあるのが、この日本語専門官が取り組んでいた日本の暗号解読である。山本五十六の前線視察が暗号解読によって事前察知され、撃墜される。その護衛機だったのが杉田だった。山本五十六の戦死が大平洋戦争終結に
大きく影響してくる。これは歴史上の"if"、バタフライエフェクトの起こったところである。

 本書には「暗号解読による情報戦」という項がある。そこから抜粋する。
「この海戦(珊瑚海海戦)の日本側参加者の中には『ここぞと思うところに必ずアメリカ空母が出現した』とか『予想もしないところに、タイミング良く敵が出てきて戦いになる』という感想を漏らすものがいた。このような不安が生じるからには、基本的な考え直して対策を考えるべきであった。基本的な事柄を問題にするのであれば、当然のことながら、暗号の安全性も問題にすべきであった」
「アメリカはこの海戦の辺りから、前号解読を新兵器として活用することを始めていたのである。そして、4月中旬にはほぼ正確に日本軍の作戦内容を割り出していた。珊瑚海海戦ではその兆候が現れていたのであるが、日本はそれに気付かなかった。このことが後に、ミッドウエー海戦の敗北、待ち伏せ攻撃を受けた山本五十六連合艦隊司令長官の戦死に繋がっていく。」

 日本軍にとって戦いで姑息な手段はとらないという中世的な精神論と戦いは武力の行使であり情報を軽視するという姿勢が参謀本部にあったのだろう。参謀本部の作戦部の硬直化した組織について、次のように書いてる。
「ここまで戦線を拡大しても一向にはっきりとしないのは、戦争をどの時点で決着させるかという点である。つまり戦争の終末点をどこに設定するかということである。しかしそれがはっきりしないのである。そもそも開戦の時ですら、日本はそれを真剣に考えた様子がない。戦争の大前提は勝つことであるが、それが何であるかが明確でないのである。」

 戦争を仕切っている大本営作戦部について、保坂正康氏の『あの戦争は何だったのか』を引用して次のように述べている。(引用の引用です)
陸大、海大の成績で一番から五番までしか入れないという暗黙のルールであった。しかもその人事は陸軍で言えば陸軍省人事局の管轄ではなく、参謀次長が握っていた。
 参謀本部は永田町の三宅坂にあり、作戦部はその建物の二階の一室にあった。作戦部の部屋の入り口には、二十四時間、衛兵が立ち、作戦部以外の者は誰も入れなかったという。たとえ、同じ参謀本部の"情報部"将校が行っても決して入れてはくれなかった。それほど徹底して秘密を厳守している少数集団だったのである。』
 このエリート集団は官僚制度の常として、自己には不利な情報は隠蔽して組織防衛に汲々とするが、彼らにしても確とした戦争終末点を思い描いているわけではなかった。差し迫った戦闘への対応策に追われて、戦術はあるが戦略がない状況であった。言うまでもないが戦争終末点の設定というのは優れて戦略的な問題であった。
 その結果、敗色濃厚となると戦闘自体が目的化して特攻隊の出撃ということになる。滅びの美学とでもいったことが、戦争の目的となってしまうのである。このエリート中のエリートがアメリカ軍を侮って誤った判断を繰り返し、その結果、前線で奮戦敢闘する将兵を見殺しにして、負けるべくして負けた戦いに他ならない」

 かなり手厳しい意見であるが、現代でも組織防衛に走り、そもそもの目的を見失って迷走する悪しき官僚システムは官公庁だけでなく大きくなりすぎた企業や法人にみかけられる。そもそもの目的がしっかりしていれば、先任優先はあり得ない。先任性というこれも悪しきシステムは捨て去られなければならない。米海軍は、太平洋戦争が勃発した時にまだ少将だったニミッツを中将飛ばしで、先輩をごぼうぬきにして最高責任者の大将にしている。もちろん、ニミッツもこれはという優秀な指揮官(スプールアンスなど)を序列にこだわらず引き抜いて参謀や部隊のリーダーにしている。一方、山本五十六は、先任ということで南雲忠一を機動部隊の長として認めて、なかばあきめているような「南雲は動かんよ」という言葉をこぼしている。機動部隊の指揮官に山口多聞を先任性にとらわれずに起用していればという話もミッドウェイに関する戦記ではよく読むことがある。

 情報を疎んじていたということのエピソードして、ガダルカナル島の戦いが始まった時、日本陸軍の中央部はまだ対ソ戦の構えを第一としていて、ニューギニアやソロモン方面の地図すらなく、ガリ版刷の素図を用いたことがあげられる。また、海軍では対英米情報を扱う作戦部第五課は大本営には置いてなく、日吉の慶應大学教養部の校舎を間借りし、課員も東大や慶應出の予備士官だったという。あくまでも情報は作戦立案に補足てきなもの、予備的なものとして扱われていたのだ。

 ガダルカナル島では食料がなく、餓死者が多く出て餓島とよばれたことはよく知られている。日本海軍は、駆逐艦での輸送()や潜水艦での輸送(鼠輸送)を行ったが、それが米艦隊との海戦につながった。杉田もたびたび船団哨戒任務に飛んでいることが戦闘行動調書に書かれている。このときの食糧輸送についても、吉田氏は次のように触れている。
「このような窮迫した食糧事情の原因は、米食にこだわる日本の米文化にあると指摘するのは秦郁彦氏(『軍事史学』166号)である。氏によると兵力2万の1個師団に必要なコメは、1日分で177石(15トン)であるから、1ヶ月だと450トンという凄まじい量になる。パンやビスケットの類だと航空機による投下も可能であるが、コメ俵だとそうはいかない。しかも兵隊はコメを食べないと元気が出ないと言って注文をつける。
 その結果、日本軍はいくら輸送船を沈められても最後までコメ俵の輸送に拘泥した。ガダルカナルの戦闘も後半に入って食糧事情が深刻さを増すと、ゴム袋に詰めたコメを潜水艦で運ぶことまでやった。また、潜水艦が水中を曳航する運送筒にもコメ俵を詰め込んだ。しかしせっかく運び込んだコメ俵も、衰弱した兵士が担ぐには重すぎて奥地の前線までは届かなかったという状況も現出した。コメの文化がガダルカナルの日本軍将兵に災いをもたらした。
・・・(中略)
 立つことのできる者は寿命30日
 身体を起こして座れる者は3週間
 寝たきりで起きられない者は1週間
 寝たまま小便をする者は3日間
 ものを言わなくなった者は2日間
 またたきしなくなった者は明日」

 このコメへのこだわりは、確かに異常なほどと思える。兵隊にはコメを食わしておけば文句を言わないという言葉も何かで読んだ。また、前線にコメを運べなかったと書いてあるが、ある本には、駆逐艦から海岸に降ろしたコメ俵を、そこから運び出す力が兵隊にない上、スコールで水浸しになり米がすぐに腐ったという話が書いてあった。そのコメを運ぶために、せっかくの駆逐艦や潜水艦を米軍の補給を阻止する海上封鎖作戦に使えず、ニミッツをして「古今東西の戦争史において、主要な兵器がその真の潜在力を把握理解されずに使用された稀有な例を求めるとすれば、それはまさに第二次世界大戦における日本潜水艦の場合だろう」と言わしめている。

 陸軍と海軍は犬猿の仲であるのは衆知のことであるが、ラバウルではそうではなかったことにも触れている。大河原良夫氏の『オーラルヒストリー日米外交史』を次のように引用している。(再び引用の引用)
「ラバウルにおいては、海は草鹿任一中将、陸は今村均大将という、この二人の優れた提督と将軍がおられたということは、非常に良かったと思いますね。参謀同士が喧嘩しようとしても、上がしっかりしているから、大喧嘩をしないで済んだ。今村大将という方も、本当に素晴らしい人間性のある方でしたね。自分は全責任を負うと言うことで、すすんで戦犯になって、戦犯の部下と一緒に苦労したんですね」

 実は、この二人だけでなく山本五十六もたいへん今村とはたいへん仲がよかった。ともに外国留学をしており世界的な視野を持っているというだけでなく、今村は生まれは宮城だけれど旧制新発田中学を出ており、山本五十六は長岡中学で、新潟つながりがあるのである。特に山本五十六は異常なほど郷土愛にみちていて、ガダルカナルに新発田連隊が送られてからは気が気でなかったことが、甥に出した手紙に書かれて残っている。今村が新発田中学出身ともなれば、半分新潟県人みたいなもので仲間意識をもっていたに違いない。

 今村は陸軍大将であるが、たいへんな人格者で軍人とは似つかわしくないキャラクターの持ち主であった。別にnoteに書いているのでそちらを参考に・・・


 興味深いエピソードの最後にドローンの話。この本が書かれた当時(イラク戦争)は、まだドローンという名前が使われていないで「無人機」と書かれていて、写真まで紹介されいる。米軍のラバウル攻撃に無人機がつかわれたというのだ。1944年9月から10月にかけて計5回日本軍施設に向けて攻撃に使用されたが、結果は芳しくなかったと書かれている。
「この無人機はカリフォルニアのインターステート航空工学会社の製品で、200馬力のライコミングエンジンを2基装備して2000ポンド爆弾を1発装備する。1943年から1944年にかけて189機が製作されている」



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