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杉田庄一ノート71 昭和19年11月中旬、特攻に行かせてください!

 11月1日の定期昇格で、笠井氏は上等飛行兵曹になった。敬愛する杉田上飛曹と同じ階級だ。笠井氏は、中学校卒業資格で入る甲飛予科練だったから進級が早いのだ。階級は同じでも杉田は先任であり、何よりも笠井氏にとっては手取り足取りおしえてもらった先生であったから、その関係性は特にかわるものではなかった。

 11月に入ってフィリピン沖海戦の後始末に大本営は追われることになる。(フィリピン沖海戦という名称は当時の日本軍が使っていたものであり、戦後はアメリカ軍が使っていたレイテ沖海戦と言われるようになるが、資料等の統一性を保つためフィリピン沖海戦で通してきた。)

 多くの艦船が損傷したが、軍令部の意見に反対して、井上成美海軍次官の主張により駆逐艦やタンカーなどの小艦艇の修復を優先することになる。空母や戦艦などの修復は後回しになり、そのままになっていく。事実上、海軍は壊滅したのだ。ただ、あだ花のように特攻による戦果だけが際立っていた。限定的に始められた特攻作戦は全軍的に行われるようになる。飛べるのであれば練習機も時代遅れの飛行機も特攻隊として使うことになる。また、搭乗員も空戦技術は問わない、離着陸できればそのまま出撃可能となっていく。

 11月に入って、マバラカット基地では連日特攻作戦が続いていた。順番通りに来る日も来る日も特攻機が出撃する。大勢いた搭乗員もみるみる減っていく。内地から新たな飛行機と搭乗員がやってきて、出撃していく。杉田や笠井氏たちは、連日直掩として出撃していた。もう隊名も搭乗員名も知らないままだ。11月に入ってすぐに、菅野隊長は何もいわずに特命で内地にいってしまっている。杉田はおかしくなった。

 11月中旬、杉田は思いつめた表情で笠井に声をかける。
「笠井、お前拳銃持ってるな」
「はい、持っています」
「日光(安治)はどうした」・・・(笠井氏と同期の隊員)
「はっ、マラリアの発作で兵舎です!」
「そうか、じゃあやむを得ん。笠井!おまえだけでいい、拳銃を持って俺についてこい!」

 杉田は笠井氏を伴って、理由もいわずに粗末なテントの戦闘指揮所に向かう。そこには黒メガネをかけた玉井浅一副長がいる。
「おう!なんだ」
「副長、おれらを特攻に行かせてください!」

 杉田は単刀直入に言った。
 笠井氏は、そのとき「まったくそのとおりや、いつでもいったるで」と思った。
毎日特攻に出撃しているのに、われわれだけはいつも直掩で残される。笠井氏もなぜだという思いでおかしくなりそうだった。玉井副長は「特攻はいつでもいける。好きなときにいける。でも、お前と笠井は263空豹部隊のたいせつな生き残りだ。豹部隊80名近い搭乗員のほとんどが戦死した。俺は内地へ帰って彼らの墓参りをしなければならんが、いま戦場を離れるわけにはいかん。俺のかわりに貴様らにたのむ。便があり次第、内地へ帰り墓参りをしてきてくれ!」と、静かにさとすように言った。杉田は「わかりました」と答え、敬礼をしてその場を去った。
(笠井氏は講演などでこのいきさつをよく話しており、YouTubeで確認できる)

 二日後に、二人を含め菅野分隊だった数名に内地へ戻れと転勤命令が届いた。特殊部隊を編成するという特別命令だった。とにかく早い便をみつけて横須賀へ行け、菅野隊長が待っているという説明があった。菅野大尉はその編成のために一足早く内地へ帰還していたのだった。笠井氏は11月下旬のある夜、一式陸攻の輸送機に便乗して内地へ向かった。杉田は別になった。

 その輸送機は敵の夜間戦闘機に襲撃され、フィリピン北部のエチアゲ飛行場に不時着する。輸送機は使い物にならなくなった。二日後に別の輸送機で内地へ向かうとまたも夜間戦闘機に襲撃され、今度は台湾の高雄飛行場に不時着する。報告をするために戦闘指揮所にいくと、突然特攻隊にはいるように命令される。
「今夜ここに着いた搭乗員に伝える。敵機動部隊は来たから貴様らも特攻配置だ」
戦闘の指揮権は現地の指揮官にある。有無をいわさずだった。もうまともな戦闘は行われず、特攻しか術がなくなっていたのだ。「ここまで来て特攻か・・・」と笠井氏は複雑な思いになる。兵舎のわりあてもなく特攻用に爆走した零戦の翼の下にむしろを敷いて横になって二日間待機していた。

「笠井兵曹おられますか」
番兵によばれた。走って本部まで行くと、そこの士官から伝えられる。
「笠井兵曹、内地から命令があった。お前は便がありしだい横須賀へ行け。すぐに行け。そこで菅野大尉が待っておられる」
 菅野大尉が手を回してくれたのだった。他にも5人が笠井氏と同じように内地帰還途中で特攻命令を受けて待機していた。
「笠井兵曹、内地へ帰れるんですか?」
「ああ、本部からの命令だ。しゃあないわ」

 笠井氏はそれだけいうのが精一杯だった。

 軍令部参謀の源田実大佐が、敵に脅威を与えるような強力な戦闘機部隊(343空)を結成し、本土上空の制空権をおさえ、その部隊を突破口にして敵の進撃をとめるという発想で秘密裏に計画をすすめていた。そのために部隊の核となる優秀な搭乗員をあつめていたのだ。笠井氏は輸送機で高雄から鹿児島県の笠之原基地を経由して横須賀につく。杉田はいつどのようにして内地へ戻ったかはわからないが、『最後の撃墜王』(碇義朗、光人社)に次のような記述がある。

「源田はそれまで、直接、菅野に接したことはなかったが、すでに海軍航空部内にあっては彼の勇名は知れ渡っていたし、どちらかといえば派手なその戦いぶりや日常の行動は源田好みともいうべきものがあった。
 偵四(343空には新構想の偵察隊もあった)も含めて四人の飛行隊長の中では菅野の着任がもっとも早く、「三四三空戦時日誌」によると、菅野の着任は昭和十九年十二月二日となっている。そしてこのあと、日光安治、笠井智一、杉田庄一、酒井哲郎、新里光一、飯田一、米田伸也、山本精一郎らの隊員たちが、数次に分かれてフィリピンから戻って横須賀に集まった」

 343航空隊は、戦闘301、戦闘407、戦闘701の3戦闘隊と偵察第4飛行隊の4隊で構成されていた。そして、最初に戦闘301が結成され、順次、整えられていく。この経緯をみると杉田も12月には内地へ戻っていたと思われる。戦記の中には1月になって杉田が合流したという記述されているのもあるが、笠井氏の記録では前述の8人に菅野隊長をあわせた9人が隊発足のメンバーと記載されている。発足時のメンバーは菅野隊長と杉田以外はすべて甲飛10期で、ひよっこの時から杉田に育てられた若手搭乗員だった。のちに「新撰組」と名付けられる戦闘301の結成は12月25日だった。「新撰組」で、戦後まで生き延びられたのは山本氏と笠井氏だけだった。





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