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「紫電改のタカ」と教員人生と「杉田庄一」

 私は今年(2021年)3月に教員養成系某国立大学を退職をした。24歳で中学校の講師になってから42年間の教員経験をしたことになる。

 学生運動がまだ盛んなときにのんべんだらりと学生生活を送り、第一次オイルショック時に大学を卒業、お菓子会社のブルボン北日本食品に勤めた。就職できればめっけもんの時期だったで有無なく入社した。しかし、ブルボン大阪営業所での勤務経験は激烈なもので、斜にかまえていた私にとって実社会のもつ「生きる」刺激があった。大阪だったことも強く影響していたと思う。営業所に掲げてあった「自己変容」の文字が、営業最前線を自分で切り拓くことの意味を突き刺していた。結果、ブルボンを飛び出した。逃げ出したわけではない、このままの自分ではいけないと強く思ったのだ。かといって何かをしたいという夢があったわけではない。このままではいけないという焦燥感だけだった。

 中学校の国語と体育を受け持つ講師になった。営業の時に1日5箱吸っていたタバコはやめた。放課後、河原を生徒と走っているとタバコのヤニで汚れた肺が少しずつ綺麗になっていく感覚があった。

 そして、小学校教員免許をとり教員採用試験を受けた。面接時に常套の質問「なぜ教員を目指すのか」に「紫電改のタカ」の最後の場面のエピソードを持ち出した。教育は未来をつくる仕事であり自分は滝城太郎(紫電改のタカの主人公)の意思を受け継いでいきたいと述べた。試験官は苦笑いをしていたが、合格した。

 実際にこの思いはとってつけたものではなく、何気なく手にしたコミック「紫電改のタカ」に影響されたことなのだ。私の父は海軍航空隊の整備兵で、昭和20年に九州の航空基地にいた。まだ幼い頃に風呂の中で繰り返し聞かされた特攻出撃時の見送りの話。自分と同じ少年兵が毎日飛び立っていくのを「帽フレ」で見送る風景を幼いときに何度も何度も聞かされていた。子供心になんで死が確実な特攻出撃するのか理解できず、いつしか日本の戦記や特攻の話は嫌いになっていた。飛行機が好きなのだけれど日本の飛行機のプラモデルを作るのは避けていた。当時は特攻という「せつなさ」に向き合えなかった。

 中学生の時、「紫電改のタカ」を読んだ。よくある零戦の話でないことに興味を持ったのだ。「紫電改のタカ」の最後の場面はまさに私にとっての避けていた原風景であった。終戦目前、主人公は特攻出撃する場面で終わるのだ。日本の敗戦を強く予感している主人公は、学校の先生になりたいという夢をもつ。しかし、終戦にならない限り毎日のように日本への爆撃が続いているのだ。今、愛する人や国を守らなければ終戦になったときに愛する人も国も残っていない。だから、愛する人や国のために死ぬという文脈に納得がいった。国というよりも郷土という概念だ。

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 さて、そんなことで学校の教員になり、さまざまな教員経験ののち最後は教員養成大学の教員になってしまった。学校の先生にだけはならないと小さい頃にいつも言ってたのにねと叔母にからかわれている。小学4年生のときに将来の職業をテーマにした授業があり、「なりたい職業」という問いに「なりたくない職業」で答えたので先生から親に伝わり、親戚にも伝わったエピソード。確かに自分でも覚えている。それが学校の先生になっただけでなく、先生の先生になってしまった。不徳の致すところだ。専門は国語教育、情報教育。定年退職後も特任教授として大学で働いていたが、コロナ禍もあり、自分の時間をもちたいと今回大学を辞すことを決めた。

 ところでそのような折に、上越市内在住のお二人の方から訪問を受けた。お一人は、私が企画して実施していた東日本大震災ボランティアツアーに数年前に参加してくれた70代の男性、木村さん。「杉田庄一の実績を伝承する会」の事務局をなさっている。もうお一人は、「杉田庄一」の甥にあたる方で杉田欣一さん。
 

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「杉田庄一」というのは上越市出身の紫電改搭乗員。山本五十六司令長官撃墜時の護衛機の搭乗員であり、その後、死地をもとめるような出撃を繰り返し、343空では菅野直隊長の懐刀のような活躍をした。残念ながら昭和20年4月15日に鹿屋基地で撃墜されてしまう。20歳だった。私の中では「紫電改のタカ」の主人公に重なる人物。詳しくは別記NOTEに記している。https://note.com/ishimasa/n/ne45c956bcb10


 私は、上越市周辺での戦争体験などを調査し平和教育の講演もしてきた。戦後に起きた名立機雷爆発事件(60人以上の子供たちが犠牲になった)を伝承する「名立の子供を守り育む会」にも関わっている。このお二人から、地元でも知る人のいない「杉田庄一」の実績を伝承し、国を守るために戦った若者がいたことをもっと知らしめたいので協力をしてくれと頼まれ、会の顧問を引き受けることにした。


 教員としての人生を始めるときに「紫電改のタカ」があり、教員としての人生を締めくくるときに紫電改の「杉田庄一」が突然あらわれたのも偶然と思えないざわざわした気持ちがある。


 この4月15日(命日)にはじめて「杉田庄一」の生誕の地を一人で訪ねてみた。
https://note.com/ishimasa/n/nc2084febe684
すでに桜も散る頃なのに残雪が一面にひろがる山奥だった。若い頃にこの地の近く松代の複式小学校に勤務したことがあるが、海を見たことがない子供ばかりだったことを思い出した。そのような山奥から「杉田庄一」は海軍をそして海軍航空隊をなぜ目指したんだろう。1年後に私の父も同じく同郷から海軍の少年整備兵に志願していることにも想いがひろがった。


 さて、長い話を書いてしまったが、「杉田庄一の実績を伝承する会」がこの7月1日「杉田庄一の碑」を生誕地に立てることになった。会員だけで作ってしまうのは簡単だが、それこそ実績を伝承する機会になるのではと進言した。そのため、広く募金活動を行い、戦争を真剣に考える場にしたいと考えている。ちょうど自分の時間を自由に使えるようになった。第二の人生、まずはこの活動からスタートになってしまった。これも因縁。




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