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杉田庄一物語その34 第四部「ガダルカナル島攻防戦」ブカ基地進出、サボ島沖海戦

 十月九日、ソロモン方面航空戦に対する戦線立て直しのため、前線各地の基地航空部隊の兵力配置が改訂される。ラバウルを本拠地とする戦闘機隊は、元山航空隊戦闘機隊(元山空)、鹿屋航空隊戦闘機隊(鹿屋空)、第六航空隊(六空)の三部隊と決められた。この名称は十一月一日に変更されることになる。
 この日の午後、六空搭乗員たちは零戦に乗って最前線であるブカ基地に移動する。ラバウルからガダルカナル島まで飛んで戦闘を行い戻ってくるには航続距離の長い零戦でもぎりぎりであったが、ブカ島まで進出することによって航続距離の短い二号戦でもかろうじて遠征できるようになった。
 しかし、まだ戦闘行動を行うまでの余裕がなく、ブイン基地へのさらなる進出が予定されていた。ブカ基地には標高二、三百メートルぐらいの山に向かってジャングルの中に作られた長さ八百メートルくらいの不時着用の飛行場があり、見晴らしがよかった。
 先遣隊の整備分隊がすでに進出しており出迎えた。第一日目の夜、搭乗員たちは座席後部に積み込んできた軽便寝台を組み立てて、天幕の中で寝ることにする。しかし、敵は零戦隊の進出を察知し、夜間爆撃を執拗に繰り返してきて睡眠を妨害した。
 十月十日、機数のかげんなどで前日零戦に乗って来ることができなかった搭乗員六、七名も船便でラバウルから到着し全隊員が揃った。この日の夜は、夜間爆撃を避けるため飛行場から約二キロメートル離れたジャングルの中に天幕を移動し、原住民の襲撃などに神経をとがらせながら睡眠をとった。


 十月下旬、丸山政男陸軍中将以下の第二師団がガダルカナル島に進出し第十七軍戦闘司令部がおかれた。このとき、日本軍は戦車や重火器を送り込もうとするが、駆逐艦による「鼠輸送」ではままならないため第六戦隊を中心とする輸送艦隊を編成し出撃することになる。
 十月十一日、輸送艦隊は城島高次海軍少将を指揮官として、水上機母艦「日進」、「千歳」と駆逐艦「秋月」、「綾波」、「白雪」、「叢雲」、「朝雲」、「夏雲」で編成されていた。ヘンダーソン飛行場を砲撃する支援艦隊が編成され、五藤存知少将を指揮官として巡洋艦「青葉」、「衣笠」、「古鷹」、駆逐艦「吹雪」、「初雪」がその任にあたった。

 一方、米軍は海兵隊を支援するための輸送船団をガダルカナル島に向かわせていた。その護衛艦隊(重巡洋艦二隻、軽巡洋艦二隻、駆逐艦五隻)が日本艦隊を察知し、夜半に支援部隊と交戦になった。輸送艦隊同士の海戦、サボ島沖海戦(Battle of Cape Esperance)である。なお、英語でのBattle of Savo Islandは、日本側では第一次ソロモン海戦と呼称していて混同されることがある。

 「セントエルモの火」が飛び交うような激しいスコールの中、目視に頼る日本海軍に対し米海軍はすでにレーダーによって事前察知し隊形を整えており、迎え撃たれることになる。夜間での同志撃ちと誤認した日本海軍は混乱の中で戦い、「古鷹」「吹雪」が沈没、「青葉」「叢雲」が大破した。米艦艇では駆逐艦一隻が自軍からの誤射で沈没している。両軍ともミスの連続する海戦だったが日本側の損害が多かった。米軍側の武器の進歩がここでも戦闘力の差となって現れてきた。しかし、日本軍の輸送作戦そのものはなんとか成功している。
 十月十三日には栗田健男中将を司令官とする第二次挺身攻撃隊が、ガダルカナル島に夜間艦砲射撃による攻撃を行うことになっていた。その前にできるだけ敵戦闘機を叩いておき制空権を有利にしておきたかった。そのためこの日ラバウルの基地航空隊は二段引き攻撃をかけることとなった。
 まず、第一次攻撃隊の零戦十八機と一式陸攻九機が敵戦闘機を誘い出し、ついで第二次攻撃隊の零戦三十機と一式陸攻四十五機が敵機の着陸時をねらって爆撃をするという、二段階の大きなものである。第一次攻撃隊の零戦が突入するが、敵はレーダーで事前に攻撃を察知して退避しており、全機を誘い出すことはできなかった。それでも空戦が行われ、敵機五機と交戦し一機を撃墜している。第二次攻撃隊も五機撃墜している。ガダルカナル島上空に雲が多く、爆撃の効果が確認できなかった
 零戦隊はほとんどが新米の搭乗員で構成され、数少ない実戦経験のある下士官や一飛までもが小隊長とならねばならなかった。この日は雲が多いため戦果を上げることができなかった。

 ガダルカナル島の戦線では、日本軍米軍ともに激しい戦いをしていたが、両軍とも戦うための補給が間に合わなかった。島には食料となる動物はトカゲやネズミくらいしかなく、短期で決着をつけるつもりであった一木支隊は上陸後すぐに食糧などの入った背嚢遺棄命令が出されていた。米軍も補給が来ず、前述のように日本軍が退却時に残していった食糧・物資を確保し、一日一食で耐えていた。

 連絡を受けた米軍の補給部隊は駆逐艦による輸送隊を編成し物資補給を行っていた。日本軍も補給船では安全に運行できず、駆逐艦によるドラム缶での補給を行うことにした。速度が劣り対空戦闘力のない輸送船では、航空機による攻撃に耐えられないためである。前述したが、日本軍ではこれを「鼠輸送」とか「ドラム缶輸送」と呼んでいた。

 このドラム缶による輸送は、空のドラム缶を苛性ソーダで洗浄したあと、中に半分ほど米麦を入れて封をし、ロープでつないで駆逐艦から海中に投げ入れ、陸上からはロープで引き寄せるという方法がとられた。予備実験は、トラック停泊中の戦艦「大和」で行われ、海面に浮かせるためには米麦はドラム缶半分くらい入れて浮かせればいいという結果を得ていた。

 補給を確保するため、期せずして日米双方が駆逐艦を用いることになったが、補給の際、艦船は航空機による攻撃には弱いことが証明されることになった。制空権を得ることがこの戦いの優劣の決めてであることを日米双方ともに戦いの中で痛感する。 

 駆逐艦による輸送は明るいうちでは攻撃をうける可能性が大きいため、日が暮れてから着くような工夫をしなければならない。しかし、そのことが零戦による上空哨戒を日没まで引っ張ることになってしまう。零戦には夜間着陸する能力がなく、ブカ基地にも照明装置がなかった。そのため午後の遅い時間を担当する四直は、薄暗くなるギリギリまで護衛した後、駆逐艦の近くに着水する作戦が考え出された。無謀な計画と飛行隊長の宮野大尉は反対するが決行されることになった。

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