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杉田庄一ノート77 昭和20年4月12日、『喜界島空戦』

  昭和20年3月10日夜、東京への大空襲があり10万人以上の死者が出た。その後、3月下旬にかけて、九州地方、四国地方、中国地方、南西諸島に対しアメリカ軍機の空襲が続いた。連合軍沖縄上陸のための準備でもあった。軍事施設や軍需工場をたたき、基地航空隊や残存している日本海軍艦船を攻撃し弱らせてから、沖縄へ上陸するという段取りだ。

 3月19日の大空戦もその作戦の中の一環であった。343航空隊の活躍で一矢報いたが、九州方面や南西諸島を守るための第5航空艦隊(5航艦)の戦力は半減していた。5航艦の主力は航空機による特攻であり、戦えば戦うほど戦力を失っていくことになる。大本営は、沖縄防衛のための『天号作戦』および特攻による『菊水作戦』を発令する。343空もそれまでの3航艦から5航艦所属に配置換えが行われ、特攻機の進路を確保する任務にあたることになる。アメリカ軍機動部隊は特攻機の攻撃に対して艦上戦闘機による迎撃ラインを作っていたが、ここを『紫電改』で突破しようと考えたのだ。防衛ラインはだいたい鹿屋基地から沖縄への中間にある喜界島あたりである。しかし、『紫電改』は航続距離が短い。遠距離飛行をして空戦を行い、また帰ってくるには最短距離にある九州鹿屋基地を使わざるを得ない。源田司令は343空を鹿屋基地に移動することを決意する。

 源田司令は『紫電改』の慣熟飛行をはじめた。もともと戦闘機乗りで、いまで言う『ブルーインパルス』のような編隊飛行チームの元祖である『源田サーカス』を指揮していた腕前である。まずは、『零戦』で操縦のカンを取り戻し、宮崎勇少尉を呼んで、コクピットの操縦装置を確かめたあと、すぐに飛び立った。着陸時も、吹き流しの風向きをみて、タッチアンドゴーでやり直し、決められた場所にピタリとつけた。
 「さすがにうまいもんだ。もう何年も乗っていないはずなのに・・・・。しかも吹き流しの方向が変わったのを見て着陸をやり直すとは、よほど余裕のある証拠だ。」と、菅野大尉は部下に話した。

 4月4日、源田司令は、志賀飛行長と坂井三郎少尉を伴って『紫電改』で鹿屋基地での作戦会議に行く。すでに3月19日の大空戦の結果は知れ渡っており、幹部隊員が3機編隊で空から乗り入れたので、他の部隊の指令や幹部から感嘆の声があがったという。このあと4月8日に、343空は大編隊のまま一糸乱れぬ隊形で鹿屋基地に降りてきた。練度が低くようやく飛べるようになった若手搭乗員が、毎日のように特攻隊で出ていく鹿屋基地では、良くも悪くも対比される光景であった。

 少し戻るが3月26日、沖縄本島対岸の慶良間諸島の座間見島にアメリカ軍が上陸を開始する。いよいよ主戦場が沖縄になったのだ。この時期、日本本土への爆撃だけでなく、沖縄への補給路を断つためB-29による関門海峡、主要港湾、航路や海峡などへの機雷投下も行われた。本土防衛のための戦闘機隊は少なく、航空機のほとんどが特攻作戦に使われるようになってきた。4月1日、沖縄本島の北飛行場正面の海岸に上陸する。連合艦隊は『天1号作戦』を発動し、戦艦『大和』、軽巡洋艦『矢萩』、その他駆逐艦8隻が水上特攻として沖縄へ向かう。4月7日、敵艦載機の攻撃を受けて『大和』、『矢萩』、軽巡洋艦4隻は撃沈した。連合艦隊は壊滅した。

 4月8日、343空は九州鹿屋基地に移動し、最前線にたつことになる。鹿屋基地は特攻機の発進基地となっており、全国の基地からいったん鹿屋基地に集結し、翌日沖縄方面に向けて飛び立つというサイクルをくりかえしていた。343空は、その特攻機の露払いとして攻撃路を開く任務につく。

 4月12日、沖縄方面への特攻、『菊水2号』作戦が発令され、343空は『特別攻撃機突撃路啓開作戦』にあたる。午前10時45分、菅野大尉指揮により紫電改42機が4機編隊毎に発進する。菅野大尉は第一中隊長とともに総指揮官であった。ところがすぐに菅野区隊の2機と杉田区隊の2機が機体の不調で引き返す。基地移動に伴い整備分隊も陸上移動で追いかけたが、身一つ飛行機で移動する搭乗員とは違い、移動したばかりで整備が間に合わなかった機が多く出ていたのだ。臨時に菅野大尉、杉田、笠井氏、三ツ石幹雄二飛曹で編隊を組んだ。杉田にとっては、久しぶりに菅野大尉との編隊であった。

 この時の様子を笠井智一氏は『最後の紫電改パイロット』(笠井智一、光人社)に記述している。本人の書いた空戦場面であるので、そのまま転載する。

 「天気は快晴、上空で大きく旋回をして待つ私の第一区隊に各区隊が追いつく。高度六千メートルまで上昇し、眼下に大隅半島、薩摩半島、屋久島などを一望におさめながら、堂々たる編隊飛行で南下した。
 12時50分、喜界島上空に達したとことでわれわれは左前下方高度三千メートルに敵編隊を発見した。三月十九日の迎撃戦に行けなかった私にとって、そのときが紫電改での初陣となった。敵は約五十機からなるグラマンF6FとF4U戦闘機の編隊だった。
 『アラワシ、アラワシ(全機へ)、敵機発見、敵機発見、左下方三〇度、菅野一番』と言うやいなや、増槽を落として菅野大尉機がビューッと六機ほどの敵編隊に後上方から矢のように猛然と突っ込んでいき、われわれも必死についていった。私は緊張はしていたものの、加速性能、空戦フラップなどの紫電改の性能の良さを信じ、零戦とは違ってグラマンにまったく負ける気がしなかった。
 最初の一撃で菅野隊長機は敵の四番機をたちまち撃墜し、落下傘が開いた。このあと機を引き起こすと、上空から別の敵機の群れが襲ってきた。それをみた杉田機はすぐさま切り返して降下していき、私はついていった。すると、グラマンが照準器にぴったり入っていた。『しめた!』と私は編隊を組んでいることを忘れて、逃げる敵機を格闘戦で追い詰め、後ろを振り向く相手の顔が見えるほどに接近した。レバーの機銃発射把柄を左手でぐっと握り、敵機の後上方から『ドッ、ドッ、ドッ』という撃発による射撃の反動を感じながら二十ミリ機銃四梃を同時に撃ち込んだ。二、三連発目の曳航弾がグラマンに吸い込まれていき、あっという間にその機はエンジン付近から黒煙をぶわっとはいて墜ちていった。
 『やった!』
しかし、杉田兵曹の機がどこにも見えない。私は区隊からはぐれてしまった。杉田兵曹にあれほどするなと言われていた深追いをしてしまったのだ。そして、周囲は敵機ばかりになっていた。」

 前回、3月19日の大空戦のときに笠井氏は下痢腹痛で休んでいて、参加できなかった。そのときの思いと初めて紫電改での空戦で少々舞い上がってしまっていた。三ヶ月近く、編隊空戦を徹底的に訓練してきたはずなのに肝心なときに目の前の餌に飛びついてしまったのだ。零戦で格闘戦も杉田から手取り足取り教えてもらい、それなりに敵と戦う術を身に付け、若手中堅として時期区隊長候補にもなっていたので、笠井氏は自然と身体が反応してしまったのだろう。その後もF6Fを相手に格闘戦を展開する。

 「そのあと、下方にグラマンの三機編隊を発見し、私は急降下で一番機に襲いかかった。右旋回して逃げていく敵機に後上方から食らいついて軸線に入れる。敵機影が右に振れ上に振れてはどんどん大きくなっていく。機銃把柄を引いて、五、六連射すると弾が翼や胴体につぎつぎに命中して炸裂し、敵搭乗員が後ろにのけぞるようにしたのが見え、煙をぱっとはいて墜ちていった。そのころには敵味方入り乱れての激しい乱戦になり、煙を引きながら何機も海に墜ちていくのが見えた。
 私は首尾よくグラマンを二機撃墜したあと、さらに逃げる二番機をめがけて掃射しようと引き金を引いたが、弾が出ない。するとこんどは別の敵機が空戦を挑んで背後から追尾してきた。私は単機でフルスロットルのまま海面近くまで下りて、執拗に追いかけてくる四機のグラマンを振り切ろうとした。攻撃されたら敵に体当たりするほかないと覚悟した。四機のうち二機は途中で引き返していったが、残りの二機は執拗に追ってきた。基地の近くまできたら、紫電改が上空哨戒中だったので、それを見たグラマンはようやくあきらめて南方へ引き上げていったので助かった。燃料計もゼロを指していた。」

 敵グラマンも2機単位で動いていることが書かれている。杉田は、2機編隊に対応するには2機編隊で、4機には4機でと繰り返し言っていた。アメリカ軍機は編隊空戦を基本として、サッチウィーブなどさまざまなフォーメンションを工夫していた。サッチウィーブというのは、ジョン・S・サッチ海軍少佐が編み出したフォーメンションで、2機が機織り(ウィーブ)のように動き相互に支援し合うのが特徴だ。互いにS字クロスで動きあっているので、敵を追っているつもりでももう片方の敵にやられてしまうのだ。ラバウル航空戦の後期頃からアメリカ軍の編隊空戦で使われ出し、これにやられた日本軍の零戦パイロットが多かった。なまじ格闘戦に自信をもっているベテランが多くやられていた。杉田は、このサッチウィーブを次々と襲ってくるので『エンドレス戦法』と呼んで、特に注意するようにいつも言っていた。笠井氏もグラマンの編隊に追い詰められていたが、たまたま味方の紫電改による哨戒機があらわれて助かったのだ。

 「基地の指揮所に着いてさっそく、源田司令と志賀飛行長に対して戦果を報告した。
 『笠井上飛曹、帰りました、二機撃墜!』
 すると、それをそばで聞いていた杉田兵曹が、
 『笠井、もう一度言ってみろ』
 『二機撃墜です!』
 『笠井、お前二機墜としたと言うけれども、海なり山なりに墜落したのを確認したのか?』
 『いえ、確認しておりません』
 『それは撃墜ではない!不確実撃墜だ!それと貴様、編隊はなれやがって!』
 杉田兵曹は言うやいなや、めったに人を殴らない人だったが、二、三発顔を殴られた。『今日まであれほどお前たちをきょういくしてきたことをなぜ守らなかったのか!』と。空戦で敵がたくさんいて、追っかけたり退避したりするうちに離れてしまったのだが、仕方がなかったではすまない。どんなことがあっても編隊についていかなくてはならないのだ。」

 日頃から『俺の愛する列機』と言っている杉田の笠井氏への愛のムチだった。そもそもその頃、編隊長から確認されなければ撃墜にはカウントされなかった。自己申告での撃墜数の誤報がその後の戦略計画にたびたび悪影響してきたことを日本海軍も学んでいたのだ。なによりも編隊をくずしての格闘戦がどれほど危険であるかを杉田は知っていた。編隊を崩せば、どんなに戦果を上げようがそれは不確実となる。敵を見るな、列機の動きを見て動け、わずかな気流の動きもいっしょに感じろという編隊空戦の訓練をずっとやってきたのに、「こいつ舞い上がって」という思いだったんだろう。先回の空戦では、初陣で舞い上がった田村氏をべた褒めしたのに、ベテランになってきていた笠井氏には拳骨だった。ちょっとベテランになった時が危険だということを杉田は感じていたのかもしれない。

 戦闘301隊の第二中隊を率いる松村大尉は、自機の増槽が落ちず、思うような空戦ができなかった。グラマン1機を撃墜するが、敵機に囲まれようやく種子島に緊急着陸する。降りた途端に追ってきたグラマンに銃撃されて地上撃破されてしまう。翌日、古い零戦で基地にもどってきた。帰ってきてから、編隊のフォーメンションがいかに大切か、あなどってはいけないと菅野大尉に指摘されている、。

 松村大尉の二番機だった山本精一郎上飛曹は、この日の杉田の動きを見ていて次のように語っていたという。・・・『最後の撃墜王』(碇義朗、光人社)
「空戦のとき、杉田兵曹の動きを見てハッと思った。すばしこい。短時間のうちに戦闘をすませて素早く戦場を離脱する。ケンカ上手というか、戦場のかけひきを理屈でなく体で覚えている。そうでなければ、激戦の中をくぐり抜けてあれだけ生き抜いてはこれない。これはいくら焦ってもダメだ。それだけ経験をつまなければ、と思った」

 この日の戦果は、F6Fが20機撃墜(うち不確実2機)、F4Uが3機(うち不確実1機)である。F6Fの不確実2機は、笠井氏のものである。343空の未帰還機は11機であり、苦しい戦いだった。

 杉田に残された日はあと二日しかない・・・



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