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杉田庄一物語 第二部「開戦」 その16シンガポール陥落

 二月十二日、東条英機首相が天皇に拝謁し、大本営連絡会議でこれからの戦争方針を研究する旨を奏上したときのことが書かれている。天皇はこのとき東条に次のような内容を話している。
「戦争の終結については、機会を失せざるよう充分考慮しおることと思うが、人類平和のためにも、いたずらに戦争の長引きて損害の拡大してゆくは好ましからず、また長引けば自然軍の素質も悪くなることでもあり、今後の米英の出方にもよるべく、また独ソ間の今後の推移を見きわめるの要もあるべく、かつまた、南方の資源獲得処理についても、中途にしてよくその成果を挙げ得ざるようでも困るが、それらも充分考慮して遺漏のない対策を講ずるようにせよ」

 しかし、残念ながら天皇の懸念していた方向へと進んでいくことになる。二月十五日、シンガポールが陥落した。開戦前から山本長官の頭の中にあったのはシンガポールが落ちた時が講和の時期ということだった。『山本五十六』(阿川弘之、新潮社)によれば、笹川良一と開戦前に次のように話している。
 「そりゃ、初めの間は、蛸が脚をひろげるように、思いきり手足をひろげて、勝って勝って勝ちまくってみせる。しかし、やれるのは、せいぜい一年半だからね。それまでにどうしても和平に持って行かなきゃならない。きっかけは、シンガポールが陥落した時だ。シンガポールが陥ちると、ビルマ、インドが動揺する。インドの動揺は、英国にとっては、一番痛いところで、英国がインドを失うのは、老人が行火(あんか)を取られるようなものだ。しかし、そこを読んでしっかりした手を打ってくれる政治家が果たしているかね。シンガポールは、半年後には陥せると思うが、其の時は、頼むよ」

 中央の政治から離れていた山本にとっては、実際にその意を汲んで動いてくれる政治家がいなかった。笹川は当時衆議院議員で、山本の意を政治家や陸軍の要人などに説いて回ったが、反応はなかった。これも阿川弘之の『山本五十六』によれば、山本に近しい第四航空戦隊司令官の桑原虎雄少将が、講和について直接山本に尋ねて次のような答えをもらっている
 「それは、今が、政府として和を結ぶ唯一の、絶好のチャンスじゃないのか。日本として、それを切り出す以上は、領土拡張の気持が無いことをよく説いて、今まで占領した所を全部返してしまう。これだけの覚悟があれば、難しいけど、休戦の成立の可能性はあるね。しかし、政府は有頂天になってしまっているからなァ」   

 そうこうしているうちに第二段作戦を進めなければならない時期になっていた。しかも、その第二段作戦の内容がまったく固まっていなかった。

 二月十七日、ソロモン方面に進出していた第四航空隊(四空)の戦力を増強するため空母「祥鳳」が六機の零戦をラバウルに運んできた。また、別便で三機が送られており、九機による零戦隊がようやく編成できた。飛行場も拡張され、長さ千五百メートル、幅百メートルの東飛行場と長さ千五百メートル、幅八十メートルの西飛行場が整った。
 二月二十日、索敵をしていた九七式飛行艇がラバウル東方約四百浬(七百四十キロメートル)に空母を含む米艦隊を発見した。四空の九六陸攻十七機が悪天候の中を出撃した。九六戦は航続距離が短く援護について行けず、来たばかりの零戦はまだ未整備だったのか出撃していない。援護の戦闘機なしでの攻撃は悲惨な結果になった。米軍の戦闘機の攻撃と艦艇からの猛烈な火砲によって十三機が未帰還になる。戦闘機の援護がなければ攻撃機は餌食になるだけであることが戦訓となった。
 二月二十四日、ようやく編成ができるまで整備された零戦九機が陸上攻撃機を援護してポートモレスビー攻撃を行った。このあとポートモレスビーへの攻撃が三月まで続くことになり、ラバウル航空戦の幕開けとなった。

 三月三十一日、杉田は戦闘機課程の訓練を卒業し、海軍二等飛行兵(転科)という辞令をもらった。一週間後の四月六日、第六海軍航空隊への配属辞令をもらう。

<参考>

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