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杉田庄一物語その31第四部「ガダルカナル島攻防戦」 米軍司令官ニミッツ前線視察

 米軍がとった反攻は、米陸軍大将マッカーサーが指揮をとる「カートホイール作戦」と太平洋艦隊司令長官ニミッツが指揮をとる「ガルバニック作戦」の二方面作戦からなっている。九月二十五日、ニミッツは、真珠湾基地を離れ前線視察を行う。途中でトラブルなどもあり、カントン島を経由しニューカレドニア島のヌーメアに着いたのは九月二十八日であった。

 ニミッツは1885年生まれで当時五十代後半。米海軍兵学校アナポリスを卒業した後、いくつかの艦長を経験し、第一次世界大戦では参謀となっている。日本海軍に精通し、東郷平八郎を敬愛し国葬にも参加している。ルーズベルトの信任が厚く、太平洋戦争が勃発すると序列二十八番目から太平洋艦隊司令長官に抜擢されている。そのため少将から中将をとばしていきなり大将になった。謙虚で思いやりのある人柄であるが、一癖も二癖もある前線指揮官たちの信頼を得ている人物であった。

チェスター・ニミッツ

 マッカーサーは1880年生まれで陸軍士官学校を主席で卒業し、その後も米陸軍の重要ポストを最年少で歴任した。1935年にフィリピン陸軍の創設にかかわり、大戦開始時にはフィリピン陸軍元帥であった。日本軍にフィリピンを追われた時に奪還を宣言した言葉「I shall return」が有名になった。連合国軍南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。戦後は日本に駐留する連合国軍の最高司令長官として、サンフランシスコ講和条約成立するまで事実上日本を統治することになる。

ダグラス・マッカーサー

 さて1942年当時の米海軍に話を戻して、北アフリカ上陸作戦のための船舶が足りない問題が起きていたにもかかわらず、ヌーメア港には八十隻もの貨物船がひしめき合っていた。しかも、砲のみを積んでいる船と弾薬のみ積んでいる船が入り乱れている上に、ヌーメアには埠頭やクレーンもなく、トラックや労働者も払底していた。ニミッツは貨物船をいったんニュージーランドに送り、砲と弾薬をセットに組んで積み替えをしてヌーメアに戻させた。

 現地のゴームレー提督は、疲労困憊していた。しかも、冷房装置のない補助艦「アルゴンヌ」を司令部にしていた。なぜ、陸上に司令部を置かないのかニミッツは不思議に思う。状況把握のための会議が行われるが、その最中に二度にわたってゴームレーに緊急電報が届いたが、ゴームレーは「どうしよう」とつぶやくばかりで行動を起こさなかった。ニミッツは、問題がどこにあるか気づいた。

 ニミッツはB17爆撃機でガダルカナル島も視察した。現地指揮官のバンデクリフト将軍の強い戦意を確認すると、さまざまな問題は司令部にあることを確信する。バンデクリフトは島全体に戦場を広げるのではなく、ヘンダーソン飛行場を占守すべきと主張し、そのための一人でも多くの兵隊、一機でも多くの戦闘機を要望した。ニミッツは、あいまいな返事しかしなかったが彼の意図を汲み取っていた。ガダルカナル島攻防戦はヘンダーソン飛行場戦の攻防に集中化されなければならない。前線視察によってさまざまな問題が明らかになり、ニミッツは次々と手をうっていく。まずはあらゆる手段をもって飛行機と兵を送り込まねばと決意する。

<参考>

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